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とある些細なけんかの話

 ハイドとけんかをした。

 といっても、派手な口論になったわけではない。ガラも人狼年齢でいってそれなりの歳で、ハイドに至っては数百歳を数える年寄りである。
 お互い、重ねた歳なりに酸いも甘いも経験しており、それなりの分別はついている――はずなのだが、だからといって衝突がまったくないというわけでもない。時折ではあるが、相手の意図を図りかねたり、分かっていながら機嫌を損ねてしまうこともあった。
 特にハイドは、なかなか分かりにくい性格をしている。六〇年もの間いっしょにいればおおよその傾向は掴めるものの、いまだに理解しかねる部分もある。
 今回に関しても同様で、ガラはなにがハイドの気に障ったのかよく分かっていなかった。どうやらきっかけが、ガラが一枚のスウェットを着ていったことにあるらしいのは確かだ。
 元プロのファッションモデルで、ハイファッションも軽々着こなすハイドに比べれば、ガラの装いへのこだわりはないも同然、着るものに金をかけたこともほとんどない。
 ある日、互いに仕事から解放されるのが遅くなり、夕飯は外で済ませようということになった。ガラが待ち合わせ場所の店の前に着いたとき、先に着いていたハイドがあ然とした顔になった。
「悪い、待たせたか?」
「構わん。それより何だ、その服は?」
「え? あぁ、これか?」
 ガラは自分の装いを見下ろした。何の変哲もないスウェットで、特徴といえば正面に茶色いテディベアの刺繍がデカデカとされていることくらいだ。
「うちの病院に長いこと入院していたおばあさんが、退院祝いにとくれてな。先立たれた孫がおれと同じくらいの歳だったらしくて、なにかと気に掛けてくれたんだ……」
「それは胸が熱くなるエピソードだが……悪いことは言わない、二度と着るな」
「なんでだ?」
 ぽかんとして尋ねると、ハイドは忌々しげにつぶらな瞳のテディベアを睨みつけ、眉間に|皺《しわ》を刻んだ。
「遠回しに言っても分からんだろうから単刀直入に言うが、ダサい。ものすごくな」
「それでも、おばあさんの想いを無碍にしちゃ悪いだろ」
「その想いは大切に箪笥の奥に仕舞っておけばいい。そして鍵を掛けて封印でもしておけ!」
「なにがそんなに気に食わないんだ?」
 ガラにとってはどうでもいいことにハイドがこだわることは、ままあった。たとえばガラの見た目のことなどがそうだ。
 ハイドは見目もいいし、より一層磨きをかけたいという気持ちはまだ分かる。だが特別人目を引くわけでもない、凡庸な人狼がなにを着るか着ないか、そんなに重要だろうか?
「私は下手な料理で、素材が台無しになるのが嫌いな性分でね。どんなにすばらしい唯一無二の逸材でも、包丁の入れ方ひとつでゴミクズ同然の仕上がりにもなり得る」
「褒められてるのか貶されてるのか分からなくて複雑だ……」
 ガラ自身は、自分という素材がいいなどと思ったことは一度もない。
 だがハイドがやけに熱心に食い下がるものだからとうとう折れて、「分かったもう着ないよ」とその日は苦笑交じりに約束を交わし、ことなきを得たのだった。
 しかし一週間ほど経った後、共通の友人を交えた食事の席があり、再び事件は勃発した。店に入り、ジャケットを脱いだガラの装いを見て、友人がいの一番に吹き出した。
「おいガラ、なんだその服は?」
「え……やっぱり変か?」
「いや、悪かないけどな? ちょっとお前の顔とのギャップがありすぎて……」
 ハイドから盛大なダメ出しを食らったテディベア柄のスウェットは、やはり第三者から見ても奇妙に見えたようだ。頭を掻きながら席に着くと、友人はおかしげに言った。
 ガラから向かって左隣に座ったハイドは顔を顰めていたが、なにも言わなかったから、ガラも当初気には留めなかった。
 約束を忘れていたわけではなかったけれど、正直言ってさして深刻に捉えてはいなかった。このところ気候が急に冬らしくなり始めて、冬ものの衣服を慌ててクリーニングに出してしまったから、着るものがなく「まぁいいだろう」と思ったのだった。
 食事の席をともにした友人はハイドが二十数年前、シアトルに住んでいた頃からの知り合いで、今では三児の父親だという。犬耳族は人狼ほど世間からの風当たりが強くないとはいえ、偏見にさらされることは少なくなく大変だ――などという世間話に花を咲かせる内、ガラは自分が何を着ているかということなど、すっかり忘れ去っていた。
「しかし、さすがにこのところ腹がたるんできてさ。目も掠れるし、神さまは不公平だよな」
 中年にさしかかった犬耳族は吸血鬼の方へと目を遣り、嘆く口調で言った。この場で最も年長だというのに、外見だけ言えば最も若いハイドは、手にしたワイングラスを揺らしながら口を開く。
「この世が公平さに欠けることは同意するが、どんな生まれであれ、努力が必要でない者などいないさ」
「そりゃそうだけど、必要とされる努力の量はやっぱり違うだろ。ほとんどの種族は、歳をとれば代謝もどんどん落ちてくるし……なぁ、ガラ?」
「そうだな……おれは、あんまり見た目のことは気にしてないから」
「フン」
 ガラがぼやくと、横からハイドの皮肉っぽい笑い声がした。バカにしたような気配を察して、ガラは笑みは消さないものの、内心少々カチンとくる。
「おかしいか?」
「いいや、おかしくはない。だが本人は構わなくても、毎日横から口を挟みたくなるのを我慢している方としては、ため息のひとつも吐きたくなる」
「いつおまえが我慢なんかしたんだ?」
「やれやれ、これだ」
 ハイドが大げさに肩を竦める。
「私が最低限おまえの感性を尊重しようという姿勢を見せていなければ、その昔車で迎えに来る度に、毎度家に帰らせて着替えさせていたさ!」
「そしたらおまえは毎回遅刻だっただろ。毎朝ギリギリまで起きなかったんだから」
 六〇年も昔のことを掘り返されて、売り言葉に買い言葉、思わずガラも反論してしまう。するとハイドは心底心外だとでも言わんばかり、嘲るように口元を歪めた。
「私の素行に罪をなすりつけるのか?」
「なにが罪だ? だいたい、おれがどんな服を着ようと勝手だろ?」
「だから、それほど邪悪な災厄の|権化《ごんげ》を身に|纏《まと》うというのか!?[#「!?」は縦中横]」
「災厄の権化って……くまちゃんだろ??[#「??」は縦中横]」
 つぶらな目をしたテディベアを指すハイドに、ガラは呆れを隠すこともできない。
 やがてハイドは「もういい」と吐き捨て、席を立つと、テーブルを後にしていってしまう。残されたガラは、完全に置いてけぼりを食らった友人と顔を見合わせる。
「あいつ、どうしたんだ?」
「分からん……おれに聞かないでくれ」
 その夜、ひとり帰ってしまったハイドが戻って来ることはなく、以来数日間ガラは顔を合わせていない。