ガラさんが猫を拾う話
1
[※ガラさんの老後の描写があります]
目を開けると、自らのアパートの寝室の天井が見えた。戦争から帰ってシアトルで暮らし始めてから、ずっと朝晩をともにしている自室だ。ガラは瞬き、気だるい身体を起こそうとして、失敗する。
物音を聞きつけたのか、寝室に現れる人影があった。ハイドだった。その手には、ガラが愛用しているマグカップがある。
「起きたのか」
「あぁ。悪い……なんだかだるくてな」
ハイドは驚きもせず、嫌な顔もせずにガラの寝台に歩み寄ると、ガラの背に腕を差し入れて、起き上がるのを助けてくれる。
「気分はどうだ?」
「悪くない。寝覚めにおまえの顔も見られたしな」
「いつの間にそれほど口達者になったんだ、私の人狼ちゃんは?」
今度はハイドはすこし目を丸くして、やわらかに笑うと嘯き、ガラに口づけてくる。触れるだけで離れていった唇を名残惜しく思っていると、ハイドがマグカップを目の前に差し出す。
香りから、ガラの好物のガラティーであることは分かっていた。ストローが差してあるのを見て「まだそこまでじゃない」と抵抗感が口を突きそうになったものの、ガラは気づく。腕を持ち上げるのも、首を巡らせるのも、ひどく難儀することに。
ハイドが、ガラの手に手を添えてマグカップを握らせてくれるが──マグカップを握ったガラの手は、しわくちゃだった。晩年の父のそれを彷彿とさせる。一方傍らに目を遣ると、老いることを知らない吸血鬼のうつくしい面立ちがあった。
ガラの目線に気づき、ハイドが悪戯っぽく笑う。
「なんだ。私に見惚れていたか?」
「あぁ……そうだ」
言うと、ハイドは珍しく面食らったような顔をして、そして驚くほど屈託なく笑った。今日はガラ自身思ってもみないほど、素直に口から言葉が出てくる。もっと早く、そうやって伝えていればよかったのかもしれない。そう思うのは──おそらくもう、ガラはそう長くはないからだ。
その時、手が滑ったのか、ふたりの手からマグカップが転がり落ちて、床にひっくり返った。
「──すまん、ハイド」
「構わん。手にかかってはいないか?」
ハイドはガラの手を改めるてから「布団は濡れていないな」と確かめ、モップを手に戻ると、手際よく床を掃除した。「いつの間に掃除が得意になったのだろう?」と不思議に思う。ガラの知るハイドはある方面においては基本的にものぐさで、細々とした家の中のことを進んでするタイプではなかった。
だというのに今は、ガラが零してしまった紅茶を嫌な顔ひとつせずに丁寧に拭き清めている。
「マーラが来たらシーツを替えよう」
「マーラって誰だ?」
「おまえの介護者だ。『美人だ』と褒めていただろう」
「そうだったか……」
思い出そうとするが、ぼんやりとしていてはっきりとした記憶はない。
「まぁ、忘れたらまた伝えてやればいい。その度喜ばせてやれる」
ハイドは床の掃除を終えると、きれいに笑んでガラの頬に口づけを落とした。やたらときれいな笑み。
弱ったガラの状態を嘆いたり、悲観したりといった表情は見えない。けれど、ガラは知っている。実のところ人一倍寂しがり屋で脆いところのあるハイドが、なにも感じないわけはないということを。
「ハイド」
「どうした?」
「……いや、」
けれど呼んだところで、どんな慰めの言葉も出てきはしなかった。ガラが言いさした時、ドアベルの音が室内に響く。
ややあって、ハイドに招き入れられて姿を現したのは、ガラのよく知る人物だった。
「やぁ、ガラさん」
「マスター」
ガラの行きつけだった喫茶「コーヒートーク」のバリスタ兼マスターは、朗らかに手を上げると持っていた紙袋を示した。
「紅茶と、ハイビスカスの茶葉だよ」
「いつも悪いな」
受け取った土産を持って去っていくハイドの肩に、バリスタが手を置く。後ろ姿を見送り、バリスタはガラの寝台の傍らへと歩み寄る。
「調子はどうだい、ガラさん?」
「ぼちぼちってとこだ」
ガラの手が皺を畳み、身体も思うように動かなくなっているのとは対照的に、バリスタは記憶の中の姿と寸分変わらない姿でそこにいる。ハイドと同様に。もしかしたら半世紀、いや数世紀後にも、同じようにハイドの隣にいてくれるのかもしれない。それが、どんな関係性であれ。
「なぁ、マスター」
「なんだい?」
ガラはバリスタの手を、精一杯の力で握りしめた。
「あいつを頼む。ひとりに、しないでやってくれ」
「……ガラさん」
バリスタは、あまり驚いたようすはなかった。けれど悲しみは隠しきれなかったと見えて、ガラの手を握り返す。
その感触の生々しさだけが、ガラの記憶にはっきりと残っている。