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ただいま

「ただいま」という言葉なんて、もうずいぶんと口にしていなかった。
 帰るべき家なんてなく、出むかえる家族もアンディにはいなかったからだ。
 ゆいいつ家とよべる場所があるのなら、それは七年前あとにしたあの船のうえだろうと思う。自分にとって幸せのすべてをあたえてくれた場所。
「七年も留守にしといて「ただいま」なんてのも、ないけどな」
 ひとり呟きながら安アパートの鍵をまわして押しあけると、ウィーンの街なかを抜ける風が部屋のなかまで吹きこんできた。
 出かけるまえに閉じまりをしていなかっただろうか、とふしぎに思う。
「おかえり、ヒノミヤ」
 とうとつに耳に飛びこむ声。ぎくりとする。とっさに居間まで踏みこむと案の定、声の主はゆうゆうとひとの家のソファに座っていた。
 ひだり半分の視界が閉ざされているため体ごとそちらへむけてようやく目にすることができる。
「……兵部」
「「ただいま」はどうした?」
「そのまえに「おじゃまします」だろう、普通」
 言いかえすと、なげかわしい、とばかりに兵部は天井をあおいだ。白いカーテンが風をはらんで舞いあがる。
「いつからそんなにカワいげがなくなったんだい? ヒノミヤは」
「まえはかわいかったみたいなこと言うんじゃねえ」
 言いすがら玄関を閉め、買いこんだ食料品を床に置く。
 いつここを発つかもしれない身のうえとして、部屋にある物はおおくない。もともと私物を持つのは好きじゃなかった。
 そのせいでそっけない風景のなかに今日は他人が、それも彼がいる。兵部京介。見た目十五才、実年齢九十弱のエスパー犯罪者。
「お前の神出鬼没に付きあっていちいち驚いてたら、こっちは心臓がいくつあっても足りないんだよ」
 こうした訪問も、じつを言うと初めてではなかった。アンディがどこにいても、なにをしていても、兵部は居場所をつきとめてふとした拍子に現れる。
 まるで幽霊のようにまえ置きも、アポイントメントもなしだ。三回目まではすなおに驚いていたが四回目からはそれもバカらしくなった。
「いきなり会うとあんまりにも嬉しいから、前もってこころの準備をしておきたい、ってところかい」
「言ってろよ」
 にまにまとした笑みをうかべて兵部はアンディを見ている。
「ヒノミヤ」
 手を差しのべられて、来い、という無言の誘惑にあらがう術はない。
 まぢかで見る兵部は以前会ったとき―たしか一年半まえだ―とどこも変わったようすがない。
 いつものことながら変わらないすがたに安堵と不安をおぼえる。いつかおいていかれるような、おいていくことになりそうな。どちらにせよ、考えたくもない。
「……ただいま」
「ちゃんと言えたな。褒めてやる」
 兵部は笑って立ちあがり、頭ひとつぶん高い場所にあるアンディの頭を撫でた。
「俺はコドモかっつーの」
 三十の声を聞いてなお頭を撫でられ、喜んでいるなんてどうかしている。
 兵部にしてみればそれでも六十年の開きがあるのだから、子どもといえば子どもに見えるのかもしれず、一向に気にしたふうもなく触れてくるが。
「やった眼帯もちゃんとしてるじゃないか」
 兵部はひだり眼を覆った黒い眼帯に触れる。数年来つかっているそれは革にパンドラのロゴを箔押しした特注品だ。
 パンドラと縁遠からぬ場所で働きはじめたときに受けとったしろものだった。
「なにかと、あったほうが便利だしな」
「じゃあ、そういうことにしといてやるよ」
 喉のおくでくつりと笑って兵部はアンディの肩に腕をまわす。
 まるで恋人にするみたいなしぐさだな、と思ったけれどその体に触れるとどうでもよくなった。衝動にながされるままに、銀色の髪に顔をうずめる。兵部のにおいがした。
 嗅覚はひとの記憶のなかで、いちばん最後まで記憶にのこると言うけれどたしかに兵部の香りをわすれたことはなかった。
 もしかりに両目が見えなくなったとしても、それでこいつのことを見つけだすことができるんだろうと思う。
「馬鹿げたことを考える、」
「読むなよ、思考」
 唇をとがらせると兵部は口角をもちあげたまま、重ねるだけのキスをした。
「安心しろ。僕が逝くときには、置き土産に視力のひとつでも戻してやる」
 ひどく愉しげに言うものだからカッとなって肩をひき剥がす。
「なに縁起でもねえこと言ってやがる」
「君が言うところのまえ置きってやつさ。イキナリ視力がもどったら驚くだろう?」
 肩を掴まれたまま、兵部は流し目で茶化す。
「お前、」
「そんなに怖いかおをするなよ」
 兵部の白い指が武骨な手をからめて口づける。ちろりと紅い舌が覗いてぞくりとしたものが背をはしった。
「……ああもうッ」
 ああ言えばこう言う、たちの悪いアクマのような男をつき放してドカッとソファに座りこむ。
「何しに来たんだよ、ったく」
「ひさしぶりに遊びたくなってね、君で」
「そうかよ」
 反論する気力もうせて弄ばれるにまかせる。兵部は猫かなにかのようにアンディの膝のうえに乗りあげてキスをしかけてきた。
 この男は、求めればひょいと身をかわして逃げるくせにその気でないときに限っていやに乗り気になる。
 もちろん一年半ぶりの生身の相手で、アンディだって触れて嬉しくなわけはないのだが。
「……兵部」
 銀髪をかき乱し、背の感触を指さきで確かめた。何年何ヵ月何日経っても変わらない、滑らかな指ざわり。
 時間にとり残されているのは彼のほうなはずなのに、おいてけぼりにされているかのような気分になるのはなぜだろう。いつか確実に老いていく自分と、とわに美しいままの兵部。時のながれはあまりに無情で、けっして失われないものに触れていたくなる。
「もし僕が」
 たわむれに舌さきの粘膜を触れあわせる合間、兵部が口をひらいた。
「本来の歳相応のすがたを君の目に見せたらどうする?」
 覗きこんだ兵部はうすく笑っていながら、両目に見えかくれする色は怒られるのを待つ子どものように見えた。
 アンディはちいさく吹きだす。
「何がおかしいんだ。ヒノミヤ」
 おもしろくない兵部の視線をうけ流す。詫びをいれる気にはならない。
「なんだよ、お前らしくもないぜ」
「ちょっと聞いてみたくなっただけさ」
 フイとそっぽをむいた兵部の腰に手をまわした。そうしないと逃げられてしまいそうな気がしたからだ。すこし傷ついたようすの横顔に触れる。
 出逢ったころは、兵部京介が他人の言動に一喜一憂するなんて、そんなことあるはずがないと思っていた。
 こころ動かされるのはいつもこちらで、相手はいつも悠然と笑っているばかりと。歳をとるにつれて分かったことは、兵部がときおりこちらが心配になるほど無防備に自分をさらけだすことがあるということ。
 子どもっぽくて愛おしいすがただ。こんな兵部はほかのだれも知らなければいい、と愚かにも思う。
「別になにも変わんねえだろ。外見ジジイだろうがガキだろうが、おなじようなもんさ」
「それで慰めているつもりかい?」
「事実だろ。なんなら寝たきりになったお前の下の世話もしてやるよ」
 ほんの軽口だったつもりが兵部には存外ショックだったようで、念動力で思いきり頬をつねられた。
 見えない洗濯バサミにはさまれているようだ。
「でっ、いはい、いは、ひょおふ!![#「!!」は縦中横]」
「いいざまだ」
 アンディの涙目を見るとすこし溜飲をさげたようで兵部は横柄な笑みを見せた。やがてアンディの膝のうえから降りると、ごろりと横になる。
「何やってんだ」
 アンディが場所をとっているために、兵部ひとりが寝転がれるスペースはない。しかたないとばかりにアンディの腿に頭を乗せる兵部にぽかんとする。
「すこし休む」
 なんて唐突な、と口にだしかけたけれど見ればあお白い眼窩がよりいっそう蒼い影をおとして見えた。
「寝てないのか?」
「まあね。かわいいユウギリの報告を聞き逃す手はないだろ?」
 兵部は笑って言う。幼かったユウギリは今、モナコ王国のソフィ王女と手を携えてエスパーの人権保護のために奔走していた。
 ニューヨークでの兵部との一件があっていらい目に見えて社交的になったように見えた少女だったが、こんなかたちでその才能が活かされる日がくるとは思ってもいなかった。そこへアンディが手を貸すことになったのもほんの偶然だ。
 通りすがりにたまたま助けることになり、以来なし崩し的に行動をともにしている。目下、イタリア闇市場でのエスパー人身売買の尻尾を掴むため、隣国まで足を延ばしているところだった。
「知ってたんだな。俺の動向もぜんぶ」
 兵部がユウギリの報告を受けたのならアンディがどこにいてなにをしているのかも筒抜けなはずだった。
「僕に知らないことがあるとでも?」
 余裕たっぷりの笑みでもって言われて、降参だ、と両手をあげる。もともと、ことなる場所で暮らしていたとしても忘れられるわけがないと思っていた。
 パンドラと──兵部とともに歩くことはアンディにとって幸せでありこそすれ困ることなんて、本当はない。
 けれどこうして目のまえにふらりと現れる以外の時間、兵部がどうして過ごしているのかをアンディが知るすべはなかった。
 いくら兵部がアンディのこれまでを知っていても、アンディがおなじことをするには、兵部のちかくにいる他ないのだ。それが、ここ数年で痛いほどよくわかった。
「なあ、兵部……」
 ためらいながら口をひらく。来年にはまた船に乗っているかもしれないとゆめを描きながら、ここ数年来アンディは生きてきた。
「もし、俺が──」
 兵部の青みがかった双眸がアンディのことばを待つ。
「いや……なんでもない」
「どうした? らしくないぜ」
 さきほどの自分のことばを取られて落ちつかない。
 接触感応でこころなんていくらでも読めるだろうに、ひとを食った笑みでしらないフリをするのは兵部一流のやさしさなのだろうか。
「だからなんでもないって」
 席を立とうとすると、兵部が腰に腕をまわしてきてそうもいかなくなった。
「この僕の枕を辞退する気かい?」
「便所だよ。俺が漏らしてもいいのか?」
 まったく気に留めるようすもなく、ごろりと寝がえりをうつ兵部が腹にキスをしてきた。
「おい、やめろって」
 その気になってしまいそうで焦る。
「あきらまたまえよ」
 怜悧な目もとを笑みにゆがめて、兵部は確信的な声でつげた。ことばに詰まり、やがてため息がもれる。
「そうだな……年貢の納めどきってやつか」
「殊勝なこころがけだな」
「ああ」
 ずいぶんと待たせただろうか。老いさきのみじかい老人をずいぶんやきもきさせもしただろう。
 歳をとると気がみじかくなる、というのは嘘だ。おそらくそこには、そいつの意思を最大限尊重するという兵部の信条と、みえもあったのだろうけれど。
「お前とちがう場所で生きるのは、俺にゃ無理な相談みたいだ」
「長年のひとり寝はずいぶんとこたえたようだね」
 兵部の手がのびてアンディの少しながくなった髪をなでた。くすぐったくて、そういう意味じゃねえよ、と苦笑する。
「笑うか、兵部」
 いまさら、ちかくに居させてくれと言う男を。兵部の白いゆびが黒々とした眼帯の帯をとく。目をひらいても、見えるものはほとんどなかった。
 あかるい場所ではましなこともあるが、くらい場所では視力もないにひとしい。
 外気にさらされた肌をいやにこころ細く感じる。
「おかしなことを言う男だな、ヒノミヤ」
 なぞる指さきの動き。まぶたがふるえる。
「ずっと傍にいただろ、君は」
 あまりに平然とした声だった。あっけないほど簡単に、彼はもどる権利なんていうちっぽけな垣根さえ吹きとばしてしまう。
 自分が歳を重ねたことでより一層うすく感じられる肩を抱く。やさしい嘘にいだかれて、アンディはああ、とうなずいた。
 船にいる奴らだってきっとおなじように当たりまえのようにアンディを迎えるのだろう。あいつらのことだから、と思うと笑みがこぼれる。
 それでも言わせてほしいと思う。無粋と言われても、そのことばを。たったひとつの家族に向けて。