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Stand By Him

 夏樹は庭の端、海の見えるあずまやに入りかけ、足を止めた。
「あら」
 そこに腰かけていた女性―若々しい容貌だが、実のところそう若くはない―が顔を上げ、ふと耳慣れない言葉を口にした。
 英語でも、ましてや日本語でもない音の羅列は吹き抜ける海風と共に、からかう様に夏樹の頬を撫でて行った。
 彼女はふふ、と笑う。
「いい風ね、と言ったの」
「はあ」
 夏樹はどう返したらよいものか迷い、会釈代わりに頭を軽く下げた。
「中、入らなくていいんですか?」
 夏樹は訊く。目の前の女性、ケイトは今日退院を果たしたばかり。風が体に障るといけないと思った。
「ご心配ありがとう。大丈夫よ。それに風に当たっていた方が気分がいいのよ」
 ケイトはおっとりとした口調で言った。身なりはかなり整っているものの、高飛車な様子はちっとも見せず、どこか相手の気持ちをふんわりと押し上げてくれるような空気がその人の周りにはある。
 このハイカラな祖母が入院した時、ユキはこの世の終わりかのような顔を見せていたものだ。
「座ったらどうかしら?」
「あ、はい」
 ケイトに促され、突っ立っていた夏樹は隣に腰かける。ケイトがまた一つ笑い声を零した。
「そんなに、緊張しなくてもいいのよ」
 ケイトは言って夏樹をじっと見つめた。
「きちんとご挨拶をするのは、初めてだったわね」
「あ、ええ」
 夏樹は背筋を伸ばしてケイトに向かい合う。
「ユキから話は聞いてるわ、それはもう毎日のように」
「宇佐美夏樹です」
「ユキの祖母です。よろしくね」
 ケイトはぱちり、とウインクをしてみせた。常識的に考えて六十の声を聴いた女の仕草ではないだろうが、ケイトがしていると不思議と何の違和感も無い。
「ユキとハルに釣りを教えてくれているんですってね」
「いえ、教えるってほどじゃ」
 夏樹は首を横に振る。単なる高校生の、インストラクターの真似事のようなものだ。指導ともいえないだろう。
「謙遜しないで。ユキの顔を見ていれば、あなたがどんなに素敵な先生か、すぐに分かるわ」
 何の含みもなく囁かれた言葉はむず痒く、だが仄かにあたたかく夏樹の胸に火を灯す。
「あいつは、素質があったんです。運もあるみたいですし」
「あら、まあ」
 当たりを引くという才能においては、自分よりも上なくらいだろうと夏樹は思っている。もちろんそれだけではいけないが、何よりも心強い武器だ。こればかりは、努力ではどうにもならない。
「ああ見えて根性もあるし、伸びますよ、あいつ」
「まあ、まあ」
 ケイトはおかしい話を聞いたかのように、陽気な笑顔を浮かべて夏樹の話を聞いている。
「ユキが聞いたらびっくりするわね、きっと」
「え、なんで」
 夏樹は思わず訊き返す。自分は人を褒めないように見えるだろうかと思った。夏樹の心配を嗅ぎ取ったように、ケイトはチャーミングに小首を傾げて見せた。
 ふと、風が吹いた拍子にケイトの方から良い香りを感じる。
「あの子、自分が何かに夢中になれるとも思ってなかっただろうから。それが、自分にも頑張れることができて、今すごく楽しいんじゃないかしらね。もしかしたら、今までの人生で一番」
 フランス訛りなのか、独特なケイトの語調はどこか歌のようだ。かぐわしい花を思わせるリズム。
 そういえば、ケイトの庭にはたくさんの花があるのだとハルが言っていたか、と思い出す。
「ありがとう」
 ケイトの澄んだ蒼い目が細くなり、夏樹を見た。
「い、いえ、俺の方こそ」
 夏樹はケイトの目を直視することができずに少しばかり逸らす。照れくささが勝った。
「もちろん、釣りのことだけじゃなくて、よ」
 何への礼なのか、ケイトははっきりと言わなかったが夏樹には分かった気がした。
「あたしがいなくても、大丈夫だったみたいだもの」
 ケイトは吹く風に乱れた銀色の髪を指先で整えた。
「ハルが来てくれて、夏樹くんが友達になってくれて……もう、寂しくないわね」
 ぎゅうと胸が締め付けられるような気が、夏樹にはした。
 
 * 
 
「ばあちゃん?」
 ユキはパーティの余韻が残る庭を歩く。家の中にケイトの姿が無い。十代の小娘も顔負け、というほど勝気な祖母のことだから退院早々無茶をしでかしていても無理はない。
 できれば今日はベッドで寝ていてほしいというのに。
「ばあちゃん」
 ユキは海の見えるあずまやの近くへと足を運ぶ。そこで、不意に祖母の声が聞こえた。
「あたしがいなくても、大丈夫だったみたいだもの」
 植木の陰で足を止める。そこにいたのが、祖母だけではないと気付いたからだ。
 ──夏樹。
 ユキは咄嗟に身を潜めてから、あれ、と自問した。
 ──なんで俺隠れてんだよ。
 聞き耳を立てるような自分の格好にツッコミを入れたところでケイトが言葉を紡いだ。
「ハルが来てくれて、夏樹くんが友達になってくれて……もう、寂しくないわね」
 え、とユキはケイトの顔を窺う。ケイトはいつものように華やかに笑っていて、その言葉だけがカラン、と空洞になったユキの胸に響いた。
 退院して、やっと元気な顔が見られて、安心した。なのに。
 ──なんで、そんな風に。ばあちゃん。
 ──まるで自分がもういないかのような。
 ユキがいま一歩で飛び出しそうになった時だった。
「寂しいです!」
 大きな声にユキの心臓が止まる。その言葉は自分の気持ちと驚くほどぴったり重なるにも関わらず、ユキが発したものではない。
 声の主は続ける。
「いつだって、誰だって……いてくれなきゃ、寂しい。から……」
 言う内に恥ずかしくなってきたのか、切り出した時とは打って変わって最後の方は弱弱しい。
「ずっと、傍にいてやってください」
 風がさわさわと木立を揺らして、波の音が遠く聞こえた。なのに、頭に響くのは夏樹の声ばかり。ややあり、そうね、とケイトの声のトーンが落ちる。
「その通りね。ごめんなさい」
「いや、……その、」
 ユキが目を凝らした植木の隙間から、ケイトが膝に乗った夏樹の手を握るのが見えた。
「ホント、ありがと。ユキは恵まれているわ」
 ケイトが言ったのと同時に、ユキは陰から飛び出していた。ケイトと夏樹が揃って振り向く。まず笑って声をかけてきたのはケイトだった。
「あら、ユキ」
「ユキ!」
 夏樹が声を上げる。その顔が驚いたものから、たちまちばつの悪そうなものに変わっていく。
「みんなそろそろ帰ったのかしらね」
「うん。ばあちゃん、いないから探したよ」
「ここで風に当たってたのよ。夏樹くんとね」
 ケイトが目線で示す。話の矛先を向けられた夏樹はいよいよいたたまれない、と顔に描いて、とうとう立ち上がった。
「な、夏樹、」
 無言で歩き出す夏樹は、ユキの脇で立ち止まった。ちらりと目線をユキによこして口を開く。
「……聞いてたのかよ」
 ぼそりとした声音はお世辞にも機嫌が良いものとは言えない。
「あ、え、……と、」
「立ち聞きかよ」
 夏樹は吐き捨てるように言った。
「ごめん、」
 ユキは夏樹の顔を見るが、夏樹は顔を背けてしまう。その頬が薄らと赤いのは気のせいだろうか。
 日焼けをした肌ではなかなか分かりづらい。
「いいばあちゃんだな」
 言い、夏樹は足を進める。ユキは食い入るように夏樹の顔を見たが、ユキが返事をするのを待ってはくれなかった。
 晩夏の日差しの中で黒いライオンが遠ざかる。綺麗な背中を見送りながら、何と言うべきであるのか、まるで分からない。かけるべきお礼の言葉も、自分の胸のざわめきを表す言葉も。
「ユキ」
 呼ばれ、ユキはそちらへ向き直った。口元に孤を描いた穏やかなケイトの顔があった。よかったわね、とその顔が囁く。
 この祖母は、手のかかる孫を傍で見守りながら、ずっとこの瞬間を待っていたのではないかと思えた。
 今までの学校でのユキの強がりも嘘も全部分かっていて、ひたすらにユキがこの時を迎えられると信じ、黙っていたのではないかと。
「ユキ、心配かけたわね」
「いいよ、そんなの」
 かぶりを振って否定する。
「おかえり、ばあちゃん」
 夏樹が言ってくれたから、その先を口にする必要はない。口を結んで、感情のままに、嬉しさを顔に浮かべるだけでよかった。