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Memory Lane

 それまでの江ノ島には決して無かった色が、窓辺にぽつんと取り残されていた。
 これから来る季節を象徴するような、鮮やかな丹色。夏の風に吹かれてふわふわと揺れる様が綺麗だと思った。
 机に座り、ぼんやりと外を眺めていたらしい彼はえり香が教室に足を踏み入れたことで我に返ったようだった。
 この春、腰越高校にやってきた奇妙な転校生の内一人、真田ユキはえり香の顔を見るなり強張った表情を見せる。
 面白い子、と思うと浮かぶ笑みをこらえ切れない。えり香の笑みを見るなり、ユキの顔には更に緊張が走った。
「まだ、帰ってなかったんだ」
 問うと、ユキは大げさなほどにこくこくこく、と頭を縦に振る。
「そういえば、今日夏樹日直だっけ。待ってるの?」
「え、」
 ユキはそこで初めて声を発した。
 目を丸くしてえり香を見つめるので、何か顔におかしなものでもついているのかと疑問に思う。
「なに、私の顔変かな?」
「いや、ちが……あ、っと……違う、んだ」
 そう、とえり香は相槌を返す。たちまち挙動不審になったえり香の隣の席の人物。理由は分からないけれど、頻繁に般若の形相を披露するのだということはクラス中―もしかしたら学年中―に知れ渡っている。
 故意なのか、未必の故意なのかは知らないが、それよりもえり香にとって重要なのは宇佐美夏樹の友人である、という部分なのかもしれなかった。
 えり香は何か必死で考えている様子のユキを横目に、当初の目的であるプリントを机の中から引っ張り出して通学鞄に押し込む。
「また、忘れものしちゃった。夏樹が見たら絶対馬鹿にするよね、あいつ」
「それ、……「夏樹」って」
「え?」
 ユキは自分で切り出しておきながら、えり香の視線が向くと途端に目を泳がせた。
「い、いや……なんでもない……んだ、ごめん」
「別に謝らなくていいけど」
 えり香は机に腰をもたせ掛け、首をかしげた。
「もしかして、私が夏樹って呼んだから?」
 ユキはちらちらとえり香の方を窺い、最後には小さく頷いた。この挙動不審クンが夏樹と仲良くしていると思うと、ほとほと不思議な気がしてくるえり香である。
「私とあいつ、従兄妹だから」
「え──ええッ!?[#「!?」は縦中横]」
 異様な驚き様に、えり香の方がびくりとする。今までむっつりと黙りこんでいたのに、唐突に大声を出すのだ。
 意外にも、オーバーリアクションもできるのだ、という真田ユキに関する情報がえり香の中で上書きされる。
「いとこ……?」
「そう。気付かなかった? 私も夏樹も、名字一緒じゃん」
「で、でもそれは……江ノ島って宇佐美多いし」
 うん、とえり香は頷く。確かにユキの言う通りだ。
「だから、親戚も多いんだ。多分、家系図とか見たら元はみんな一つの家なんじゃないかな」
「へえ……」
 ユキは素直な感心を顔に浮かべる。と同時に、緊張の面持ちはいくらかでも薄れているようだった。
 えり香もまた、今なら訊けるだろうかという気になる。ずっと聞きたかったことを。
「ねえ、ユキくん、夏樹と釣りしてるって本当?」
 ユキは青みがかったグレーの目をえり香に向けた。
「あ、うん……夏樹が、教えてくれてて」
「そうなんだ」
 些細な会話すらままならないユキが、この話題に限ってははっきりと答えをよこす。ユキの口を軽くさせる鍵は「釣り」なのか「夏樹」なのか、それとも両方なのか。
「なんかちょっと、意外かも」
「何が……?」
 思った以上に、食いついて来た。えり香はにこりと笑う。
「ぜんぶ、かな。夏樹が釣り教えてるのも、ユキくんが夏樹と同じ趣味なのも」
 ユキはまるで普通の男子高生のように、少し照れくさげに頭を掻いた。
「俺も、最初は……そんなに真剣にやるつもりじゃなかったんだ。でも、気付いたらハマってて……」
「それって、夏樹のせい?」
 ユキは少し黙り、ややあって控えめに肯定した。
「うん……多分、そうだと思う」
「じゃあ、責任とってもらわなきゃね」
 茶化して笑うと、ユキは再びモジモジくんに戻って目を逸らす。だが話を続けたい気持ちが勝ったようで、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……さ、」
「なに?」
「なんで、意外なの? 夏樹が釣り教えてるの」
 ユキがなつき、と口にする音は滑らかで、普段から呼び慣れている響きがあった。そんなユキにどう答えたものか、えり香はうーんと逡巡する。
「夏樹が、友達と一緒に釣りしてるところなんて見たことなかったし……第一、最近江ノ島では釣ってなかったしね」
 最近、というのは具体的には二年前を境にしてのことだったが、そのことは伏せておく。
「そうなの?」
「そうなの。あんま江ノ島好きじゃないみたいだよ、なんか」
 ユキは意外だ、と顔に書いたが、なぜと問うことはせず、教室の窓から見える遠くの海に視線を投げただけだった。
 真田ユキと夏樹と自称宇宙人のハルと。おかしな取り合わせの三人が一体どんな関係を築いているのか、部外者のえり香には推し量ることのできない部分がある。
 分かるのは、どうも釣りなんていうオジサンの趣味に熱中する仲間であるらしい、ということ。
 ──これが男の世界ってものなんだろうか。
 と、えり香は興味本位に思う。
「夏樹……ってさ、」
 ユキはゆっくりと自分から口を開いた。
「ずっと前からやってるの? 釣り」
 それは、本人から聞いた方がいいんじゃないのかな、と心の中では答えつつ、えり香もこの手の話は嫌いはない。
「私が覚えてる限りでは、いつも釣竿持ってたよ。ほんと、小さいとき。幼稚園入る前くらいかな」
「そんな小さい時から?」
「叔父さん──夏樹のお父さんが好きだったし、本人も妙に気に入っちゃったみたい。ちょっと運命っぽいよね。それで叔父さんに連れられて寄合にも顔出すようになって」
 えり香が紐解く過去の出来事を、ユキは目をキラキラとさせながら聞いている。さながら絵本に夢中になる子供のように。
 江ノ島は大きな町ではなく、人口の少なさに比例して同年代の子供もまた多くはなかった。
 橋を渡って行けば会える友達はいたが、江ノ島まで一緒に帰ってくるのはえり香と夏樹と、ほんの僅かな子供だけ。
 それでも、えり香は江ノ島が好きだった。夏樹との遠い記憶を掘り起こして口にすることは、てのひらの中に隠しておいた秘密の宝物をそっと人に見せる行為に似ていた。
 懐かしさと少しの誇らしさが混ざった気分だ。
「いつから……知ってるの、夏樹のこと?」
「私?」
 ユキはこくり、とかぶりを振る。えり香はしばし考え込んだ。改めて考えるといつと答えるのは難しく、だがそんなことに大した意味はないのだという結論に達する。
「ずっと前……覚えてないくらい、ずっと前から」
「いっしょに遊んだり、した?」
 真っ直ぐにえり香を見上げるユキの顔を見て、えり香はすとん、と納得する。目の前のユキもまた、えり香と同じなのだと。
「うん、遊んだよ。たくさん」
 声に出すと、今まで振り返ってもみなかった昔のことが瞬く間に思い出されてくる。夏樹のことを地元嫌いだと揶揄したものの、えり香だって近ごろでは高校と自宅の往復に終始していたきらいがある。
 こんな風にして問いただされなければ、きっと色褪せていってしまったであろう思い出も。
「ユキくんはさ、江ノ島好き?」
「えっ」
 急に自分自身に矛先を向けられたのが意外だったのだろう、ユキは狼狽する。
「なんで、」
「なんとなく。そんな気がしたから」
 ユキは一度海の方を見やり、えり香の方に向き直った。そうして、はにかんだ笑顔で答える。
「うん……好きだよ」
「そ。私も、好き」
 笑いかけると、ユキはしどろもどろになって顔を赤くする。つくづく、見ていて飽きない顔だ。
「ユキくんがそう言ってくれるからさ、なんかいろいろ思い出しちゃった。夏樹が釣れなくて釣れなくて、びーびー泣いて帰ってきたこととか」
「な、夏樹が!?[#「!?」は縦中横]」
 ユキがぎょっとして目を剥く。少しばかり話を盛ったけれど、まあ、誤差の範囲内だ。
「そうだよ。うちに泊まった時、トイレが怖くて一人で行けなかったこともあったなー」
「う、うそ」
「ほーんと……ね、夏樹?」
 えり香は言うなり、廊下の方へと目を剥けた。ガタリ、と教室の引き戸が音を立てた。その陰からむすっとしたボサボサ頭が姿を見せる。
 あっけにとられたユキは、一枚戸を隔てた向こうに渦中の人物がいるとは思ってもみなかったようだ。
「夏樹!![#「!!」は縦中横]」
「盗み聞きはよくないなあ?」
 えり香が言うと、仏頂面の幼馴染は最高に不機嫌な声で一言、
「……してねえよ」
 申し訳程度の文句を口にした。えり香はほくそ笑み、鞄を手にする。踵を返しざま、ひらりと掌を挙げた。
「じゃあね、ユキくん」
「あ、……あ、うん」
 ユキは挨拶ともいえない挨拶を返す。夏樹は教室に足を踏み入れ、無言で机の上に置いてあった鞄を手にした。
 歩み寄ったえり香をじとりとした目で睨む。
「お前、嘘言うなよ」
「本当だよ。夏樹が覚えてないだけでしょ?」
 友人への暴露攻撃はえり香の予想以上に効果覿面らしく、夏樹は黙り込んだ。
「別にいいじゃん。友達なんだし」
 えり香は窓際であわあわとこちらを見ている赤毛の彼を見た。夏樹もまたユキの方を見る。
 開いた窓から吹く風が廊下の方へと抜けて行って、夏樹のぼさぼさの前髪を揺らした。その顔に、少し小さな声で尋ねる。
「ねえ夏樹、……もしかしてちょっと、焼きもち?」
「は?」
 夏樹が目を丸くしてえり香を見る。近くに寄れば、見上げなければいけない背丈の差。同い年だというのに、思い返せばいつもこうやって見上げていた気がする。
「ね、どっちに?」
「なんだよそれ、意味分かんねえ」
 夏樹は眉間に皺を寄せて、怒りだけではなく、どこか戸惑った様子を見せた。えり香は笑う。
「夏樹、変わったよね」
「は? どこがだよ」
 夏樹は以前と同じように、イラついた顔を見せる。けれど本当は夏樹自身だって分かっているに違いないのだ。自分が何を手に入れて、何が不要になったのかも。
 不機嫌を装う夏樹がおかしくて、軽やかな足どりのまま、傍らを通り過ぎる。
「それと……ユキくんってちょっと変だけど、意外とカワイイよね」
 わざとらしく、去り際にぽつり、と一言零してやる。その時の夏樹の顔は、傑作と言ってよかった。
 寝首でも掻かれたような夏樹の顔と、窓辺に立ち尽くす元凶の彼。
 忘れがたいフィルムの一枚を胸の中のアルバムの中にしまいこみながら、えり香は夏休みの迫った教室を後にした。