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ヘミングウェイと夏樹

 お空の頂点に向かい高くなる日差しの中で、一匹と一人が微睡んでいた。勢い良く店のドアが開く。
「おっはよ~う!」
「あらハル、早いじゃない」
 小気味良く響いた女店主の声にビシッ! と敬礼し、ハルはヘミングウェイのドアを過ぎた。釣具店とカフェが同居した店内をたん、たたたんとマーチのように歩く。と、窓際のそこで見たものは。
「あーっ!」
 ハルは声を上げた。
「なっつきー! 寝──ふぐッ!」
 最後まで口にできなかったのは口許を押さえられたからだ。背後から伸びてきた手の主をハルは振り仰ぐ。夏空に浮かぶ入道雲のような笑顔を浮かべるのは、井上歩だった。
「はふむふん!」
「おう、ハル」
 ハルが黙ったのを見計らって歩は手を放す。
「歩ちゃん、なんで?」
「いいから、もう少し寝かしといてやれ」
 言って歩は窓にほど近いテーブル席を見た。そこに突っ伏して寝入る夏樹を。もさもさの黒髪が下を向いてテーブルの木目に掛かっている。
 ハルは、うん? と首を傾げる。今は朝九時だ。朝になったら起きるものなのだ、人間は。
 うーんと考えていると、反対の方向から凛とした声が聞こえた。
「そうしてやって」
 歩の申し出を海咲が肯定する。
「え~、海咲姉も?」
「ね、ハル」
 海咲は最後の一押しとばかりにウインクを飛ばした。歩もまた口許に人差し指を当てて静かに、のサインをする。
 二人の顔を順番に見比べ、こくり、とハルは頷いた。まだ頭のなかはハテナだらけだけれど、そうするのがいいと思った。
 そろりそろり、と夏樹が突っ伏したテーブルの傍に足を運ぶ。
「夏樹、おねぼ~う」
 くく、と笑ってその顔を覗き込んだ。見れば、その隣の席では店長─ぼてっと太った猫のこと─が背を丸くして眠っている。
 茶色の毛玉と黒い毛玉が作るひだまりのような空間。見ている方まで眠気を誘われ、ハルは思わず欠伸を噛み殺した。
「海咲姉、夏樹、なんで寝てる? まだ朝だよ?」
「開店準備終わって気が緩んじゃったみたい。疲れてたからね」
 海咲がカウンターの向こうから言い、歩がハルの傍らに立った。
「疲れた? なんで?」
「元々忙しかったのに、最近はお前たちの朝釣りにも付き合ってたっていうからな」
 えっ、とハルは隣の歩を見る。
「僕たち、夏樹困らせてた?」
「違え違え、違えよ」
 歩はハハ、と白い歯を見せて笑い、ハルの肩を叩く。歩の手は大きく、分厚く、こんがりと焼けた肌が夏の日差しを思わせる。
「ハル、夏樹がなんでお前たちの朝釣りに付き合うと思う?」
「なんでって、なーんで?」
 歩、そして海咲を順番に見るが、二人ともにこにこと笑うばかり。ハルはむっ、とした。みんなが笑っているのは嬉しい。
 けれど、ハルが知らないことでみんなが笑っているのは、なんだが嫌な気持ちがするのだ。
「分かんないよ、もーうっ!」
 歩はごめんごめん、と言ってハルの頭にぽんぽんと手を置く。
「夏樹はな、お前らといるのが嬉しいんだ」
 歩は一方の椅子から店長を抱き上げると膝の上に抱えた。テーブルに肘をつき、隣で寝こけている夏樹の顔を見やる。
「……夏樹、嬉しい?」
「ああ、そうだ。時間を作ってまでお前たちに付き合う理由はそれだ」
 ハルは身を乗り出すようにして歩の顔を見た。
「ほんとほんとっ!?[#「!?」は縦中横]」
「ほんとだ」
 ハルは浮き立つ心のままに飛び上がり、歩に倣ってテーブルに肘をついた。今すぐ飛びつきたいけれど、歩の言いつけを守りすんでの所で我慢する。
 店員用エプロンを着けたままの夏樹の背が、穏やかに上下する。腕の中からかいま見える両目は閉じている。黒縁の眼鏡はその右手に握られたままだった。
 眠ったときの夏樹の顔はハルが知っているどんな夏樹とも、ましてやユキのそれとも異なる。
 少し幼く、少し安心した風な表情が新鮮だ。うずうずとドキドキの間で、ハルは二番目にできたトモダチの観察に夢中になった。
「はしゃぎ疲れた、って所ね」
 コーヒーカップを拭きながら、海咲が言った。
「前は荒れてて、そんな余裕もなかったもんなぁ」
 歩が大きく頷き呟く。瞬間、ハルの胸の中に何かキラキラとしたものが舞い込んできた。
「ありがとな、ハル」
「夏樹が嬉しいと、歩ちゃんも嬉しい?」
 歩の青く澄んだ目を食い入るように見つめ、ハルは尋ねる。そうせずにいられなかった。
「弟みたいなもんだしな、こいつは」
 歩の言葉がハルを浮き立たせる。とてもではないがじっとしていられない。
「う~~~~ッ」
 ふつふつふつ、と湧き上がるきもち。
「夏樹と歩ちゃん、仲良し!![#「!!」は縦中横]」
 その時、びくり、と夏樹の肩が震えた。
「あ、起きちまったか?」
 歩が見る視線の先で黒い毛玉が持ち上がる。
「……あれ、」
「なっつきー!![#「!!」は縦中横]」
 居ても立ってもいられず、ハルは跳ね上がりざまに飛びついた。ハルより、ユキよりも少しだけ大きい背中。けれど大好きな背中。
「うわっ!」
 目覚めて間もない夏樹は開口一番悲鳴を上げた。
「なんだ、」
「僕もユキも、夏樹といるとうれしー!![#「!!」は縦中横]」
「ハハ、とんだラブコールだな」
 歩ののんびりとした口調に、は? と夏樹は混乱した顔で背中にくっついたハルを窺う。
「夏樹ーっ、釣り行こうよー!」
「待てっ、眼鏡くらいかけさせろって」
「眼鏡なんて、必要なーいじゃーん!」
 ほら! とハルが夏樹の顔を覗き込む。鳶色の目がまじまじとハルを見る。
 夏樹の双眸の中に移るハルは笑っていて、それがうつったように夏樹もふと笑った。
「……そうだな。良く見える」
 細く筋張った手が伸びてきて、ハルの頭に乗った。そのままブロンドに近いハルの髪をわしゃわしゃと掻き混ぜる。
 ミルキーウェイの星のようにきらめいていたものが、胸の中へ弾けて拡がる。あわわ、とハルは首を竦めた。
「夏樹、くすぐったいよ~う」
「なら、降りろ」
 夏樹が立ち上がろうとするので、ハルは両手両足で必死にしがみついた。
「ダメ! 夏樹、僕の顔見えなくなっちゃう!」
「眼鏡かけるから、ほら」
 亀の子と化したハルの背中の方から海咲の柔らかな声が聞こえた。
「なんだか、兄弟みたい」
 ふふ、と海咲が微笑って、夏樹が頬を強ばらせる。きっと、浮かぶ笑みをこらえるために。歩が堪えかねたように快活な笑い声を響かせた。
「おお、夏樹の弟なら俺にとっても弟ってことになるな!」
「フ~~ッ、うれしーーーー!![#「!!」は縦中横]」
 ハルが夏樹に負ぶさったまま両手を振り上げた時、カラン、と店のドアが開いた。ハルは戸口の方を見る。
「こんにちは」
「ユキだ~~っ!![#「!!」は縦中横]」
 赤い髪がドアの陰から覗く。それだけで誰だか分かった。
「よ、来たか」
 夏樹を皮切りに店の面々が声をかけて、ユキはカウンターの方へと歩み寄る。
「ユキ! ケイト、元気してたぁ?」
 ユキは晴れやかな顔で頷く。
「うん。経過、悪くないみたいだ」
「よかったな」
 ハルの下で、夏樹が笑う。うん、とユキは笑い返し、不意に真顔になった。
「ん、どうした?」
 夏樹が問う。
「い、いや、」
 ユキは言い、目を逸らす。
「なんだよ。なんかあったのか?」
「い、いや、そういうんじゃなくて」
 何か切り出したいような、言いたくないようなその顔を見る内、ハルのアンテナがピン! と立った。ユキの気持ちが分かった!
「分かったっ、ユキも兄弟したいんだー!」
「えっ」
 ユキは目を丸くして、夏樹と二段重ねになったハルの方をまっすぐに見る。
「お前、さみしいのか?」
 夏樹が訊き、ユキがテンパる。見る見るへにゃりと眉毛がつり上がって少し怒った顔になった。けれどそれは、ハルが悪いという意味じゃない。
「い、いや別に俺は!」
「ユキ、やきーーもち!![#「!!」は縦中横]」
「な、なんだよそれっ!」
 はははは、と笑い声を上げて歩がユキの肩を叩く。
「いいぞ、兄弟は何人いてもいい!」
「何言ってんだよ、船長まで」
 夏樹が零すが、その口元は孤を描いている。ユキがいよいよ顔を紅くする。陽だまりの温度は正午に近づいて熱を帯びていく。
「いいよねぇ~、うちのバイト君は。とーっても楽しそう」
 海咲が少し意地悪な顔でそう言い、夏樹を青ざめさせるまで、かしましい声はヘミングウェイの店内を彩った。
 
 *
 
「すみません」
「うん?」
 くい、と眼鏡を押し上げざま夏樹がレジに入る。
「……寝ちまって」
「いいの。その分働いてもらうからね」
 段ボールを開きながら海咲は振り返った。
「あっちで話しててもいいんだけど?」
 カフェの方へと耳を向けるとハル・ユキ・歩の声が聞こえる。歩とハルのエネルギーに負けてユキの声はあまり聞こえないが。
「い、いや」
「そ、」
 海咲は腰を上げる。横に並べば海咲は夏樹には身長で劣る。まだ二十にも満たないくせに、たっぱだけはあるのだ、このバイト君は。
 伝票をまとめる夏樹の横顔を見る。
「笑うようになったね、夏樹」
「え?」
 夏樹が海咲を見てぽかんとした顔を見せる。そんな一つ一つの表情の揺らぎ、起伏が夏樹の顔に見られるようになるとは、思ってもいなかった。
 ここで働きはじめの頃は時化た海のように荒れていたものだ、歩の言うように。
「ま、覚えてないか。自分がどんな顔してたかなんて」
「俺、そんなおかしな顔……」
 そうねえ、と海咲は腕を組み、不意に手を伸べる。ぼさぼさ頭に指を差し入れて撫でれば意外にも柔らかな手触りがした。
「な、」
 うろたえる顔もお構いなしに掻き回す。
「大事にしなさい」
 海咲は言う。誰より大切なものを大事にするたちだと知っているから、本当はこんな忠告も必要ないと分かっている。
「はい」
 夏樹は律儀に頷いた。うん、と頷き返す。
 ──でも、ちょっとだけ寂しくもあるんだけどね。
 胸をよぎった名残惜しさは口にせず、海咲は黒髪から指を離した。