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Dive

 抜けるように青い空だった。
 晩夏に近づく夏空は過ぎ行く季節を惜しむように晴れ渡っている。
 こんな夏晴れの日だというのに、登校日、等と言うものに喜んで足を運ぶのは、相当学校が好きな奴なのだろう。
 教室にいる生徒はこんがりと陽の色に焼け、あるいはまったく焼けてもおらず、おのおの休暇中の思い出語りに耽っている。
 仲間ができてからは、ユキだって学校が苦手という程ではなくなったが、なにも学校に来なくても彼らには会える。
 それよりも釣りがしたい、とユキは窓の外に視線を投げながら思う。
 退屈な教師の話も終わり、夏季休暇登校日の特別学習と銘打ったビデオ鑑賞を控えた二時間目。
 まず異変に気付いたのはハルだった。
「あれ? ユキぃ、夏樹いなーい」
「え、」
 教員がスクリーンを降ろす間の漣のような喧噪の中でハルが驚いた声を出した。
 ユキもまた教室の廊下近くを見遣る。ぽつん、と一つ取り残されたように空席がある。
 そこにあるはずの夏樹の気だるげな顔が今は見えない。一時間目まではいたはずなのに。ユキの胸の中がにわかにざわめき立つ。
「本当だ……」
「あは、夏樹さぼり~?」
 ハルが茶化す。そんな、とユキは顔を顰める。
「それは……ないだろ」
 咄嗟に否定したのは、夏樹がああ見えて根は真面目な性分だと知っているからだ。
「じゃあなんでいない?」
 ハルが訊くが、ユキは答えられずに口を噤んだ。
「じゃ、消すぞー」
 教師の声が聞こえて教室の照明が落ちる。
「夏樹いないと僕さみしーい」
 ハルが大きな声を上げた時、出し抜けにユキの傍らから声がかかった。
「多分、保健室じゃないかな」
 ユキは内心飛び上って横を見る。やや長い黒髪を耳の脇で結わえる、えり香が口を挟んできたのだった。
「え、ほほ、保健室?」
「ええーっ!?[#「!?」は縦中横]」
 ハルが身を乗り出すようにして、教師から煩いぞ、と声が上がる。担任の注意も何のその、お構いなしにえり香が言う。
「うん。さっきうちのクラスの保健委員、呼び出されてたよ。話聞いた感じだと、多分そうだと思う」
「保健室って、どっか悪いの?」
 知らず自分までえり香に詰め寄っていることに、ユキは遅れて気づく。やや引いた様子のえり香はさあ、と小首を傾げた。
「ごめん、……詳しくは分かんないけど、階段から落ちた、とか」
「え!?」
 思わず立ち上がりそうになるのを、ユキはすんででこらえた。なんで、いつ、どんな風に。疑問が脳内を駆け巡る。
 ユキの内心を代弁するようにハルが不安げな顔を見せる。
「ねぇユキ、夏樹大丈夫かなあっ?」
「階段……、って」
「ユキ、様子見てきたらどうだ」
 話に割り込む声は右斜め後ろから。振り向いた目に飛び込むのは、日本人とはかけ離れた褐色の肌。
 クラス最年長―当然―のインド人は素知らぬふりで会話を盗み聞きしていたらしい。
「アキラ」
「気になるなら、こんな退屈な授業放って見に行けばいい」
「おっ、俺が?」
 ああ、とアキラは頷いた。
「友達なんだろ?」
 アキラにどこか含みのある顔を見せられる。ユキはぐ、と言葉に詰まった。
「善は急げ、だな」
 ニヤリ、と笑うなりアキラは席を立ち、手を挙げた。言い返す暇も無い。
「すみません、先生、真田君が腹痛だそうです」
 瞬間、クラス中から集まった視線。
 ──ひ、ヒィイイイイイイ!!!!!!
 顔中の筋肉が瞬く間に凝固し、般若の形相を作り上げていくのが分かる。また始まったよ、般若だ──まじヤバいよね。
 半ば慣れたものとはいえ、口々に言い交す声を聞けば本当に具合も悪くなるというもの。
「なんだ、真田も具合悪いのか」
「はっ、ハイ!![#「!!」は縦中横] ほ、ほほほほ保健室!」
 病人にあるまじき声量で答えた後は、記憶が無かった。
「あーっ、ずるい、僕も行きたい!」
 頬を膨らませるハルの声を尻目に歩き出す。
「お、おい、真田ぁ!」
 緊張感に欠ける教員の呼びかけに返事をする余裕などありはしない。ユキは窒息しそうになりながら、半ば駆け足で一目散に教室を飛び出ていた。
 
  *
 
 沈んでいく感覚。もがけばもがくほど身体は重くなって、水底に引っ張られていく。真っ青な世界。一面に舞うビー玉のような泡。
 溺れる自分を見て笑っている、あれは誰だろう。
「おいユキ、大丈夫か!」
 水の膜を隔てて歪む声。耳の中に水が流れ込んでくる。ユキを海へと突き落した張本人たちが海面を覗き込んで声を張り上げていた。
 そう、一ヶ月のバイト終了と共に船長が言いだした悪ふざけだ。自分には、とんだ罰ゲームだったが。
「だめーっ、ユキおよげなーい!」
「なっ、そうなのか!?[#「!?」は縦中横]」
 能天気な自称宇宙人の声に続いてやや焦った声。そうだ、泳げないのだ俺は。
「ったく、海の男の名が廃るぜ」
 笑い混じりの声。男の顔が見える──そう、あれは父だ。父の嬉しそうな顔だ。沈んでいく自分を見て楽しそうに笑っている。
「ごぼぶぉっ、わ、わらってない……! たすひぇへッ!」
 言葉を紡ごうとすればたちまち海水を呑んでしまう。何かを掴もうとして足掻くも、手は虚しく水を掻くばかり。
 ──苦しい。助けて。息が出来ない。
 情けなくも心底願った時、何かを掴んだような気がした。
「ユキ!」
 指の先にあったものに無我夢中で掻き付く。その人物は必死にしがみつこうとしたユキの腕を制した。
「おい落ち着けって!![#「!!」は縦中横] 俺まで溺れる!」
 彼は不満を口にしながらもユキをなだめ、肩を貸してくれる。塩水が目に入るという事も、一瞬恐怖すら忘れてユキは相手を見た。
 夏樹だった。
「なっ、なつ……はふ、けひぇ!![#「!!」は縦中横]」
「分かった! 大丈夫だから力入れんなって!」
 眼鏡を外した、明るい鳶色の双眸がユキの目に焼きつく。ずぶ濡れの黒髪はいつもより大人しく見える。
 その見た目よりもしっかりとした肩に、ユキは遮二無二しがみついた。
「力抜いて、掴まってろよ」
 言いながら夏樹は泳ぎ始めた。
「お前、泳げないから初めから言えよな」
 島育ちの夏樹は当然のように泳ぎも達者で、溺れる人間を助けてもまだ悪態をつく余裕があった。
 ユキはその背に揺られて運ばれるばかり、まるで、亀の背に乗って竜宮城に連れられる浦島太郎のような。腕の下の筋肉の静かな動きを、ぴったりとくっつけた肌から感じた。
「……夏樹っ」
「もう少しで岸だ」
 安心させるように告げられた言葉に力を抜くと、わずかに身体が浮いたような気がした。
 水の中で、自分も沈まずにいられるのだと、ユキはその時生まれて初めて思ったのだ。あの時生まれて初めて、海の水を少しだけ心地良いと思った。
 
  *
 
 首を絞められたように苦しくて、夏樹の元気な顔を見ればそれも収まるのではないかと根拠の無い期待を抱いた。
 無我夢中で教室を抜け出した二時間目。我に返ったのは保健室の前だ。授業時間でしんと静まり返った廊下で、自分の心臓の音だけがうるさく鼓膜を叩く。
 ユキは目の前の扉を二回ノックし、返事を待たずに開けた。
「す、すみません」
 校庭に面した窓は開け放たれていて、白いカーテンが大きく風を孕んでいた。穏やかな風景。
 だが、そこに目当ての人物がいるかと思ったユキの思考は裏切られる。
「え?」
 丸椅子に腰かけていた女子がユキを振り返った。黒髪で、長い髪を二つに結んでいる。
 見たところ、下級生だろうか。ユキは、
「えっ、あ」
 瞬間的にテンパった。だが当初の目的は果たさなければと、踏み留まって口を大きく開く。
「あ、ああああの、三組のっ、」
「ユキ?」
 その時、目の前に天使の梯子が見えたのは決して言い過ぎではない。夏樹が壁に手をついて顔を覗かせた時、ぱあっと目の前が明るくなったように思えた。
 だが、嬉しい気持ちがいっぱいに膨らんだのも束の間である。
「どうした。どっか悪いのか?」
 夏樹は驚いた顔で歩み寄るが、その顔の上に眼鏡が無く、左足が引き擦られていることにユキの方がぎょっとした。
 一も二も無く詰め寄りその肩を掴んでいる。
「夏樹!?[#「!?」は縦中横]」
「──痛、」
 夏樹が微かに呻いて、ユキは慌てて手を放す。
「ご、ごめん!」
「……ったく、落ち着けって」
 内心パニックであるユキを余所に、当人である夏樹は至極冷静に言って、ユキの額にデコピンまで食らわせる。
「ぃだっ!」
「はは、あいこだ」
 利き腕と反対の手でデコピンをお見舞いした夏樹は、小さく笑って言った。
「夏樹……怪我、」
「ああ、別に、大したことじゃねえよ」
「で、でも、」
 大したことないわけないじゃないか。食い下がろうとすると、脇から小さく声が上がった。
「──私が!」
 ユキと夏樹が振り返ったのはほぼ同時である。
 なり行きを見ていたのだろう二つ結びの女の子が、控えめな、だが真摯なまなざしを向けていた。
「わ……私を助けてくれたせいで、宇佐美さんまで……落ちたんです」
 彼女は膝の上で所在無げに両手を結び、たどたどしく言う。
「助けた?」
 ユキが不可解な気持ちで夏樹を見ても、彼はそっぽを向くばかり。
「私が落ちそうになった時、咄嗟に庇ってくれて、怪我までしちゃって、……ほんと、すみませんでした」
「だから、いいって言ったろ」
 夏樹は包帯の撒かれた左手で鬱陶しげに髪を掻き上げる。大方、照れ隠しだ。ユキは改めて夏樹の足元を見る。
 制服の裾から突き出た素足にはきっちり処置がされていて、第二ボタンまで開いた襟ぐりからも肩に巻いた包帯が覗く。
「夏樹、痛くないの?」
「だから大したことないって」
 夏樹はそう言うが、彼女の話によればこうだ。一時間目が終わった休み時間、階段で偶然居合わせた夏樹は、すれ違いざまに最後の数段を踏み外しかけた彼女を庇って一緒に転がり、体を打った。
 幸いというべきか、左肩で着地した際の打撲と手首足首の捻挫の他は目立った怪我も無い。
 頭を打たなかったのはラッキーというよりも、瞬時に頭を庇うことのできた夏樹の身体能力によるところが大きい。
 更に幸運なのは、彼女の方は全くの無傷だったということだ。ユキはぽかんと夏樹を見た。言葉にならない感慨がこみ上げる。
「夏樹……すごい」
「何がだよ」
 真っ白なベッドに腰かけた夏樹が不審な目をユキに向ける。
「いや、なんか、かっこいいなって」
 ちらり、とすぐ脇を見ると、助けられた小柄な女子生徒は俯いていた。
「別に……当たり前だろ、あんなん」
 全然、当たり前じゃない。いや、当たり前なのかもしれなかったが、何の引け目も無くそう口にできるのはきっと夏樹だけだ。
 賞賛の言葉が湧いて来たが、撥ね付けられることは目に見えているのでそっと心の中にしまう。
「レンズ、取り換えねえと」
 話題を逸らそうとしたのか、夏樹がポケットから眼鏡を取り出して言う。その左レンズは無残にも罅割れていた。
 タイミングを見計らっていたかのように女子生徒が切り出す。
「私、弁償します!」
「いいよ。ていうか、そういう意味で言ったんじゃねえし」
 すげなく返され、彼女の顔は少ししょげて見えた。その顔を眺めて、ピン、とユキの勘にくるものがある。
 ややあり、沈黙を破ったのは夏樹だった。
「ありがとな」
 ぶっきらぼうな口調はこれ以上ないほどに夏樹らしく、彼女を元気づけるには十分だったと見える。その頬にみるみる朱が昇り、勢いよくぺこっ! と頭を下げる。
「あの、ほ、本当にありがとうございます!」
「ああ……」
 夏樹が曖昧な返事をする。
「じゃあ私、こ、これで!」
「え、おい」
 再び勢いよく顔を上げた彼女は、文字通り脱兎のごとく走り出す。夏樹が呼び止める声も聞かず、瞬く間に姿を消してしまった。
 ユキはぽかん、と彼女の消えたドアを見つめた。正確には、圧倒された、というのが正しい。
 走り去る彼女の顔ときたら、見ている方の胸までドキリとさせた。恋する乙女という名が、今この時世界で一番ふさわしいのはきっと彼女だ。
「保険の先生、待たなくていいのかよ」
 夏樹本人はといえば、何の自覚も無くそうぼやいている。
 偶然から生まれた淡い思いの一かけらも、夏樹には伝わっていないことに、少し同情に似た気持ちが生まれる。
 ひとしきり怪訝な顔を見せた夏樹は不意にユキに向き直り、もう一つの疑問に思い至ったようだった。
「そういえばお前、なんでここにいんだ。授業中だろ」
「あ、えと」
 ユキは答えに詰まる。なぜと聞かれれば答えは一つ、夏樹の無事な顔が見たかったからだ。夏樹の顔を見て、思う存分息が吸いたかった。
 ──なのに、どうしてだろうか。どうして「心配で」と一言言わなかったんだろう、今。
「お前も、サボりとかするんだな」
 ユキの答えを邪推した夏樹がからかい半分に言う。
「いや……そうじゃないんだ」
「ん? じゃ、やっぱ腹痛とかか?」
 ユキは首を振る。否定した途端、頬が熱くなるのを感じた。忘れたわけではない。自分は臆病で、勇気も意気地も無い人間だ。
 だから例えば、自分の目の前に助けを求める人がいても、迷いなくその手を掴むことはきっとできない。
 包帯を巻いた左手がユキの右手をゆるく掴んだ。いきなりのことに、びくりと飛び上がってしまう。
「っ!」
「悪い、よく見えなくて」
 思わず振り払いそうになったことを悔やむが、夏樹が険しい顔を見せる頃にはもう遅い。
「ユキ、マジでどっか悪いのか?」
 夏樹がユキの顔を覗き込む。胸の中で狂ったように心臓が跳ねていた。
「違う、ごめん」
「じゃあ、なんだよ」
 力が入らない様子の、長い指を見て思う。
 自分ならせいぜい、飛び込んだ海で溺れて助けられる側の人間だ。必死にもがいて、いつも手を伸ばしてくれる誰かを探している。
 だが──もし、助けを求めているのが夏樹だったら。夏樹が自分を必要とするのなら、何を擲ってもその役に立ちたいと思うのだ。
「夏樹」
「どうした?」
 夏樹の声はひどく耳触りが良い。初秋の足音にも似た、少し涼やかさを帯びた風が保健室に舞い込む。テンパっていると察したのか、夏樹は促したきりユキの言葉を待ってくれる。
 事実、こうして助けられているのは自分であるのに、なんておこがましい考えを持っているのだろうと、十秒前に浮かんだ思考は瞬く間に波に呑まれて転覆していく。
「俺……」
 助けたい、そう思うことで助けられているのもまた自分なのではないのかと。
 ──夏樹を助けたいだなんて、おこがましい。
 掴まれた場所がむず痒い。息ができない。どうにかなってしまいそうだった。顔の表面が般若の形相を形作っていくのを感じる。そうして、緊張に震えて歯がガチガチと音を立てる頃。ふ、と夏樹が笑った。
「んなテンパることかよ」
 言って、夏樹の指がするりと解ける。ユキに逃げ道を与えてくれたのだと、分かった。
「なつき、」
 体より先に心が釣られ、足を踏み出す。前へ。背けようとした夏樹の頬に指がかかる。顔を寄せ、重ねた。
 重ねた──何を?
 薄い唇、温度はユキ自身よりも高いだろうか。それを、同じ唇で感じた。触れ合わせるだけのそれは、背を伸ばせばいとも簡単に離れてしまう。目に飛び込む、少しだけほころんだ口許。
 呆然とした表情の夏樹を見て、意識が戻ってくる。津波のように、思考が押し寄せる。
「……あ」
 俺は、何を、誰に? 
 透明な夏樹の瞳は、嘘偽りなくユキの姿を映し出している。
「ユ、」
 夏樹が声を発する、引き金を引かれたように体が逃げる。一歩、二歩後じさるなり、夏樹が自分を見る視線がはっきりと見えた。
「……ごめん」
 言い捨て、ユキは走り出した。
「ユキ!」
 夏樹が呼ぶ声だけが追いかけてくる。普段の夏樹ならば、走ってユキを捕まえるなど簡単な芸当だろう。
 だが今は、歩けこそすれ追い付かれることはまずない。そのことに安堵を覚える自分に、心底泣きたかった。廊下は真っ平らであるにも関わらず、足がもつれる。泥沼に足を取られるような感覚。
 沈んでいく、真っ暗な水底へ。肺の中の酸素をすっかりと使ってしまうまで、走り続けた。
 何故──。
 自分の心すら見えやしない、こんな海の底では、夏樹が一番聞きたかったであろう問いに答えられようはずもなかった。