Loading...

ユキさんがカメ子な話

 夕焼けが海の青に反射して、黒い影になる江ノ島との鮮やかなコントラストを生んでいた。
 冬の江ノ島の海は人もまばらで、夏の賑わいは無いけれどユキには優しい。着いた膝先に打ち寄せる波頭が白い。ユキは懸命にシャッターを切る。
 手袋が無いとさすがに寒い季節だったけれど、指先で感じたシャッターの感覚は潮騒と混じって心地よさを生んだ。
「すごいカメラだね。高そう」
「うん。結構した──って、えッ!?[#「!?」は縦中横]」
 一人でカメラに専念していたはずのユキは、すぐ頭上から降ってきた声を聞いてぎょっとした。見上げる。然程湿っぽくない潮風が吹いて、マフラーから零れるその人の黒髪を梳いていた。
「えっ、わ、あ……っ宇佐美、さん」
 すぐさまテンパるユキの様子を見て宇佐美えり香はくすりと笑った。
 ──わっ、笑われた!![#「!!」は縦中横]
 ガーン、とユキは軽くショックを受ける。
「えり香でいいよ」
「ひぇっ!?」
 驚きすぎて出した声が裏返って、ユキの顔はますます強張っているのだろう。穴が入ったら入りたい心境だったが、生憎ここには波と砂以外のものは何もない。
「良い写真、撮れた? 毎日撮ってるよね」
「え、」
 ユキは目を丸くする。驚くあまり、般若の相は退散してくれたらしい。
「なんで、」
「だってここ、帰り道だし」
 えり香は軽やかに言って笑った。そうか、江ノ島神社……。当たり前の事実に思考が追い付く。改めて考えてみるとえり香とユキの帰り道はほぼ同じなのだ。
「そ、そうだよね」
「うん。そうやって毎日撮るのってやっぱ何か、こだわりがあるの?」
 えり香が何の気なしに膝を折ってユキの隣にしゃがみ込む。あまりに近い距離に心臓が縮み上がって悲鳴を上げた。
 友人の従姉妹──って、要するに他人なんだけど──えり香とは、夏樹が渡米をしてから却って話す機会が増えたように思う。
 それもそのはず、夏樹がいる頃は夏樹がまずえり香と言葉を交わすのが当たり前で、ユキはその背後から様子をうかがっていただけなのだから。
 ──こんなかわいい従姉妹がいるんだ、夏樹には、とユキは思っていた。
「こ、こだわり……っていうか」
「うん」
 えり香は膝を抱えてユキの言葉を待つ。どこかで見たことのある仕草だと思ってすぐに思い当たった。ユキを見るえり香のまなざしは、どことなく夏樹のそれに似ている。
「江ノ島の夕日って、毎日違うんだ。それって、多分俺が今まで気付かなかっただけなんだけど、毎日太陽の色も雲の形も、波の光り方も全然違うし、それ、見ただけじゃ俺絶対忘れちゃうから、撮っとかなきゃ、って思って」
「そうなんだ」
 うん、とユキは頷く。
「見ていい? 今までの写真」
「い、いいよ!」
 ユキは自分でも驚くほどに浮き立つ声で言って、えり香の手には少し大きい一眼レフを手渡した。
 えり香は送れば送るほど出てくる写真に見入り、時折感心した声を上げた。
「あっ、これ、ピンク色の夕日。こんな日、あったっけ?」
「あ、うん。確か、次の日すごい快晴だったよ」
「すごいね。ちゃんと覚えてるんだ」
 ユキはむず痒い心地で頷く。
「うん。そうやって撮っとくと、忘れないから」
 そうだ、と思いつきユキは制服のポケットからスマホを取り出す。
「そのカメラ、最近バイト代で買ったばっかだから。その前のはスマホに入ってて」
「そうなの。いつから撮ってるの?」
 問われてユキは逡巡した。
「夏樹が向こう、行ってからかな」
 そうして、一人の時間が増えてからだ。一人に戻ってから。自分とも、夏樹やハル以外の他人とも向き合うことが増えた。
「ほら、これとか。すごい綺麗」
 ユキはえり香の手にスマホを渡す。えり香はほんとだ、と言って一枚一枚写真を捲った。
「ユキくん、写真撮るの上手いね」
「そっ!?[#「!?」は縦中横] そうかな?」
 声が裏返る。
「うん……あ、夏樹」
 えり香が声を上げる。ユキはえ、とえり香の手元を覗き込んだ。四角いディスプレイの中で、確かに夏樹がロッドを振るっていた。一ヶ月ほど前の写真だ。
「ユキくんが撮るから、夏樹がかっこよく見える」
「なに、それ?」
 ユキは思わず笑う。まるで、夏樹がかっこよくないみたいな。
 夏樹という共通の話題を挟んだからか、不意に楽に息ができるようになる。それを見たえり香が口許に孤を描いた。
「やっと笑った」
 えり香の目元にある泣き黒子がユキに笑いかける。思わずユキは目を逸らす。瞬間湯沸かし器のように顔が熱くなった。
「夏樹もさ、ユキくんたちが来るまで、あんまり笑わなかったんだ」
 えり香はユキの携帯の中の写真を捲りながら、懐かしげに言う。
「お、俺が転校したての頃も、怖かったよ」
「やっぱり?」
 ユキが出会った頃の夏樹は、触れれば切られてしまうような切れ味のある目線で周囲を見ていた。
 唯一さくらと向かい合う時だけ、その目元が柔らかくなった。やがてゆっくりと、ユキの心と同じ速度でその胸の中にあるわだかまりは解消されていった。
「……夏樹、こんな風に笑ってたっけ」
 えり香の声には、いつの間にか懐かしさ以上のものが滲んでいる。手元を見やると、映し出されているのは夏樹が渡米する前、二人で釣りに行った時の写真だった。
 夏樹の笑顔が増えたのは、夏休みの頃だろう。さくらの失踪事件を挟んで、元からクールだった夏樹の表情は一層大人びて見えるようになった。
 いつかはユキの手の届かない場所に行ってしまうのではないか、と不安が胸をよぎるほどに。
 予感は的中して、今、彼は遠い地にいる。渡米を目前にしたその日、ロッドを振るういつも通りの夏樹の姿が何故だかとても尊いものに思えてカメラレンズを向けた。
 ──なに、撮ってんだよ。
 照れ隠しのぶっきらぼうな声で夏樹は言ったのだ。いいから、と押し通すと夏樹も何か思うものがあったらしく押し黙ってユキの好きなようにさせた。
 海からの風が短くなった夏樹の髪を乱暴に撫でて、それでも夏樹の強く柔らかな視線はまっすぐにレンズを射抜いた。
「あいつ、昔もよくこんな風に笑ってたな」
「昔?」
「お母さんが亡くなる前。 ……あ、これも夏樹?」
 再び問うたえり香の手の中の夏樹は目を瞑り、寝入っている。確か、ヘミングウェイで寝入っている所を発見したときの写真だ。
 陽だまりになったテーブルに突っ伏した夏樹の髪が木目の上へと散らばって、ほんのりと茶色に透けている。
 珍しく夏樹が無防備な姿を見せていることが不思議で撮らずにはいられなかった。自分の寝顔がユキのスマホの中に収まっていることを、夏樹は知らないはずだ。
 ついでに言えば、いつかユキが夏樹の出る大会に駆けつけられた時、その姿を新調したカメラのレンズに収めたいと目論んでいることを本人は知る由も無いだろう。
 きっとそういった計画を夏樹は理解できないに違いない。えり香にいわば盗撮ともいえる一枚を見られて、また違う意味で恥ずかしさがこみ上げる。
「そう、だけど」
「ユキくんって、夏樹のことよく見てるんだ」
 どきり、と心臓が高鳴る。えり香は髪を耳にかけながらユキを見やった。
「あんまり夏樹のこういう所、見たことなかったから。なんか、新鮮」
 ありがとう、と言ってえり香がユキの手にスマホを返す。
「男の子、かあ」
 えり香は出し抜けに立ち上がり、ぐっと背伸びをした。ユキも釣られて立ち上がる。一際赤みを帯びてきた西日がえり香の白い頬を染める。
「たまに……っていうか、結構思うんだよね。男の子だったらなあって。夏樹見てるとさ」
「そう、なの?」
 小首を傾げられても、ユキには同意の言葉を口にすることができなかった。ユキにとって、異性とはあまりに遠い存在で自分がそうなりたいなんて考えたこともない。
 えり香は、夏樹とはまた違った意味で大人だと思えた。もしかしたら女の子は、生まれた時からもう大人なのかもしれない。
「だって、羨ましいじゃん」
 そう言ってにこり、とえり香は笑う。その胸の中にある真意は、ユキには読み取れない。ユキにとって身近な女の子の一人であるえり香は、今また新たな謎を投げかけて踵を返そうとする。
「また、写真見せてくれる?」
「う、うん」
「嬉しい。じゃあ、私先に帰るから」
 えり香は手を挙げる。ユキはあと一歩の所で頷きそうになり、懸命に声を上げた。
「宇佐美……さんっ」
 えり香はきょとん、とした顔で振り返り、冗談交じりに少しほっぺたを膨らませて見せた。
「えり香でいいよって言ったじゃん」
「えっ……え、えりか、ちゃん」
 なに、と柔らかそうな唇が問う。一眼レフを握ったユキの手は震えた。
「写真! と、撮らせて、くれない……かな」
 夏樹と同じ色のえり香の目が丸くなる。
「……私の?」
「だ、だだだだ駄目ならいいんだ! ごっ、ごめんイキナリ、なんていうか、」
 えり香は少し戸惑った表情を浮かべたが、ややあって通学鞄を後ろに持ち帰ると目を逸らして言った。
「い、いいけど、早くしてよね」
 ユキは、ぽかんとえり香を見る。えり香が捲し立てて言う。
「だってなんか、恥ずかしいでしょ?」
「あっ、ご、ごめん」
 ユキは慌てるあまり、カメラを取り落しそうになりながらファインダーを覗いた。ユキの記憶にある女の子の写真は広告やプリクラの中にある威圧されそうなものばかりだった。
 しかし今、江ノ島と片瀬の海岸を包む斜陽の中には所在無げなえり香が佇んでいる。ほのかに頬を染めたえり香に向かってユキは夢中でシャッターを切った。
 何枚か撮ると、急かすようにえり香が口を開く。
「もう、いい?」
「う、うん……ありがと」
 ちらりとユキに向けられた視線は、星の光が地球に届くより早くユキの元に届く。キラキラとしていて熱い。それはやはりほんの少しだけ、夏樹のまなざしに似ていた。