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Born-again Angler

 中学生の頃、だったように思う。もうはっきりとは覚えてないけれど。きゅ、と蛇口をひねる。流水の音が聞こえなくなると台所は途端にしん、と静まり返ったように思えた。
 夏樹はひっそりと息をつく。家族全員の分の洗い物をするのが、これほど大変だとは思わなかった。
 落して少しだけ欠けてしまった父の茶碗は誤魔化かせるだろうか。ちっとも悲しくなどないけれど、母に言い訳をしなければいけないことが少しだけ後ろめたい。
 夏樹の内心を察知したように、夏樹とさくらの部屋へ続く襖戸が開いた。
 夏樹は跳び上がって背後を振り返る。
「……ごめん、夏樹。寝ちゃってたみたい」
「母さん」
 部屋着で現れた母は少し寝乱れた髪をかきあげ、欠伸を噛み殺す。
「洗い物、してくれたのね」
「う、うん」
 夏樹は大急ぎで積み上げた食器の上に布巾を被せた。夏樹のぎこちなさには気づかない様子で、母は隣に並ぶとシンクの中を見て微笑んだ。
「こんなに綺麗にして。ありがとうね」
 その声は凛としていたが、同時に柔らかくもある。母は流し台の縁に手を着くと、ほ、と小さく息をついた。夏樹は母の顔を見上げ、尋ねた。
「さくらは?」
 うん、と呟いて母は額に掌を当てる。疲れているのだ、と夏樹は思った。学校のPTA役員を務めていた母は、その時期ちょうど忙しかったらしい、というのは大きくなってから理解した事情だ。
 幼い夏樹はどうしてなのかも分からず、ただ母の苦しげな顔を見るのが耐えがたかったに過ぎない。
「少しは落ち着いたみたい。お医者さんに貰った薬が効いたのね」
 それを聞いて、ざわざわとしていた夏樹の胸の中で少しだけ落ち着く。さくらが熱を出したのはつい今朝方のことだった。三九度の高熱で、当然幼稚園は休み。
 母は店の切り盛りをしながら朝一でさくらを病院に連れて行き、学校へ呼び出される合間を縫っては帰って来て様子を見るという一日だったようである。
 子供の夏樹にできることなんて限られていて、せいぜい家事を手伝うくらいのことしかできない自分がイヤだった。
 早く大人になりたい、と思ったことは初めてではなかったけれど、今日はことさらだと夏樹は思う。そして無力感からくるモヤモヤは、自然もう一人の親の方向へと向かう。
「なんで帰って来ないんだよ、オヤジ」
 トゲトゲする言葉を隠せず、夏樹は言った。父の悪口を言うと困ったように笑う母が不憫に思えて、また腹の虫が騒ぐ。
「「お父さん」でしょう。今日は商店街の集まりがあるから、仕方ないのよ」
 母の言葉とは言えにわかには信じられず、夏樹は時計を見た。文字盤の短針は十時を指している。
 熱で苦しんでいる娘を放って夜も帰らない、それでどうして父親と言えるのだと夏樹は思う。本当に大事なら、他の家のことなんか放っておいても真っ先に帰って来るはずだ。
 夏樹が懸命に胸の中にしまい込んだ言葉を察したように、母は続ける。
「お父さんもね、本当はさくらを放ってなんか行きたくないのよ」
「じゃあ、帰ってくればいいじゃん」
 父の真面目な顔を思い出そうとしても、思い出せるのはへらへらとした笑い顔ばかり。あの父親のどこがさくらを心配しているというのか、夏樹には一ミリだって理解できない。
 母が父に甘いのは知っているのだ。甘すぎるくらいだと言ってもいい。
「夏樹」
「なに?」
 母の手が藪から棒に夏樹の頭を撫でた。そのまま抱き寄せられて、夏樹の心臓は跳ね上がる。
「もうすぐ背、抜かれちゃうね」
 まるで小学生の子供にするように頭を撫でられて、夏樹はもがいた。
「あっ、当たり前じゃん、男なんだから」
 そうね、と夏樹の黒髪に頬を寄せて、母はおかしげに笑う。 
「硬い髪の毛。誰に似たのかな」
 母の髪の毛は、夏樹のそれとは違い細く柔らかだ。自分の髪の毛が誰譲りかなんて言われずとも明白で、考えたくもない。
 だが夏樹の内心とは裏腹に、母の声音に感じられるのはその感触を心底愛おしむ心根だった。まるで、この家に来て後悔したことなんて一度もない、というような。
 母の心はいつも夏樹の疑問とは対極の所にある。
「……なんで、あんな人と結婚したんだよ。母さん」
「うん?」
「あんな、いい加減な人とさ」
 硬いと言った夏樹の髪の毛に手櫛を入れながら母はそうねえ、と考え込む。
「なんでかなあ。最初は、こんなかっこわるい人見たことがない、って思ってたんだけど」
「そうだよ! オヤジなんかより、船長のほうがかっこいいだろ!」
「歩ちゃん?」
 母は驚いた風に目を丸くすると、ふっと吹き出した。
「あっ……はははは!」
「なっ、なにがおかしいんだよ!」
 真面目に出した名前を一笑に付されて、夏樹はかっとなる。
「だって、おっかしいんだもの……っはは……もう、笑わせないでよ」
 二の句が継げない夏樹の傍で母は一しきり笑い、ややあって、言った。もう、夏樹のヘソはすっかりと曲がっている。
「お父さんと一緒になったのはね……やっぱり、夏樹とさくらに、会いたかったからかな」
 しみじみと言った母の声が耳を擽って、夏樹は口を噤んだ。針を奪われてしまったハリネズミのような心地で、夏樹はそれでも引き下がれない。
「でも、大変そうじゃん、母さん」
 母がさくらの看病の傍ら店の仕込みをする一方で、父は外をほっつき歩いている。それを笑って許す母が、夏樹には分からない。
「いいのよ」
「なにがだよ」
 小指程度しか背の変わらない息子に凭れて、いいの、と母は繰り返す。背丈どころか手の指も腕も、近いうちに夏樹は体格では母を抜かすだろう。
「ごめんね。心配かけて」
 夏樹は初めて、母に慰められているのだ、と悟った。母を助けたいと思っていた筈が。情けなさは恥ずかしさと混じって、ぶっきらぼうな声しか紡げない。
「母さんがいいなら……いいけど、おれは」
「うん。夏樹がいるから、母さんは大丈夫」
 母の香りに包まれながら感じたのは、苛立ちと気恥ずかしさと僅かな誇らしさだ。その時の夏樹は、幼いながらにも母には敵わない、ということをしっかりと学んだのだった。
 
  *

 瀬戸物の擦れ合う音で目が覚めた。夏樹は目を開け、顔を上げる。座ったテーブルの席の真正面に、エプロンをつけた後ろ姿が見えた。
 蛇口が水を吐き出す音、カチャカチャという音が耳をくすぐる。
「……かあさん?」
 思わず呼び声が盛れる。洗い物なら俺がやるのに。疲れているのに、無理しなくてもいい。そうやって声をかけられたら──と思った。そう、言えていたらよかった。自分がもっと、母さんに楽をさせられていたら。
 もうそれは叶わない願いだと頭のどこかが理解している。だって、もう母さんは。半ば夢の中で逡巡しながらぼうっと見つめているとその人が振り返った。
「夏樹くん?」
 その瞬間、夏樹ははっとした。エプロンで濡れた手を拭うその人の髪は黒のストレートではなく、柔らかな茶色だ。
 顔に眼鏡もかかっていない。その人は、母ではなかった。父の恋人──そして夏樹の未来の家族だ。かけられていたブランケットが肩から落ちたことに、夏樹は遅れて気付く。
「大丈夫?」
 呆然とする夏樹をみかねたのか、真理子は心もとなげな声を出した。
「あ、……はい」
 夏樹は内心大慌てで眼鏡をかける。視界がクリアになると同時に、自分が見せたミスをまざまざと認識した。
「大丈夫なら、いいんだけど。疲れてるんじゃない?」
 真理子が控えめな気遣いを見せる。夏樹はどもり、絞り出した声は大きくない。
「すみません、洗い物」
「いいのよ」
 真理子は言って、やんわりと笑う。いたたまれずに夏樹は立ち上がる。情けない姿を一秒でも見せたくなかった。
「俺、風呂の支度してきます」
「あ、もう洗っちゃった。お風呂……ごめんなさい」
 真理子がイタズラをしでかした子供のように言って、夏樹は言葉を失う。
「いいですけど、っていうか……なんで謝るんですか」
 ぎこちなく発した言葉は自分自身の耳にも妙に堅苦しく聞こえた。
「そ、そうよね、変よね、あたし」
 あはは、と頬に手を当てて笑い、真理子はぎこちなく流し台の下にしゃがみ込む。夏樹は、その膝を着いた背に問う。
「洗濯物は?」
 途端気持ち良い程に、ゴチン! という音を立てて、真理子はシンク下に頭をぶつけた。
「ちょ、」
「あ、いたた……洗濯物も、しちゃったの。ごめん」
 真理子は振り返りざまに答える。その目が涙目になっていて、夏樹はえもいわれぬ居心地の悪さを味わった。
「だから、謝らないでいいって」
 思わず歩み寄ったはいいものの、最後の一歩を残して夏樹は立ち尽くす。立ち入って良いものかどうか、微妙な距離を埋めようがない。これだから、人付き合いは苦手だ。
「なに、してるんですか?」
 シンク下の戸の前にしゃがみこんで動かない真理子に訊くと、流しの水の出が悪くて、と言う。その調子で、いったいどれだけの間格闘していたのか。
「一応、栓は緩めようとしてみたんだけど」
「ちょっと、いいですか」
 言うなり夏樹は腰を折る。真理子が退いて傍らを空けた。古ぼけたシンク下に手を突っ込み、伸びた水道管の中ほどにあるバルブに手をかける。
「捻る時、コツがあって」
 硬く滑りの悪い栓を緩め、試しに蛇口を捻ると難なく水が流れた。真理子が感心した顔を見せる。
「すごい。上手いのね」
「少し戻してから開けると、上手くいくんで。今度やってみてください」
 夏樹は濡れた手を拭い、言う。
「ええ。ありがとう、夏樹くん」
「いえ」
「夏樹くんがアメリカに行く前に、キッチンの使い方、伝授してもらわなきゃね」
 朗らかに笑って真理子が言う。
「そうですね……時間、ある時にでも」
 相槌を打って踵を返そうとし、夏樹はふと目を留めた。流しの横、食器と共に並ぶ湯飲みの縁が目についてしまったからだ。
 縹色の自分のカップの端は、そんな風に欠けてはいなかったはずだった。途端、真理子は慌てた声を出す。
「あ、あの、それ」
「あー……いや、見なかったことにするんで」
 無残な姿になった自分の湯飲みから、つとめて目を離そうとする。
「ごめんなさい、わざとじゃないのよ! あたし、もうホント、そそっかしくて」
「俺もまあ、よく割ったし」
 わざとでも困る。フォローになっていないフォローを入れると、真理子はやや安心した表情を見せる。
「そう、なんだ。じゃあ、一緒ね」
 忍び笑いを浮かべる真理子の横顔を夏樹は見る。いつか、父に聞いてみたい。なぜこの人なのかと。
 ──なぜ母だったのかと。果たしてそんな日が本当に来るのかどうか、夏樹には分からないが。
 真理子は黙りこんだ夏樹を一瞥するとふと口を開く。
「ありがとう、夏樹くん。あなたのお家に、いさせてくれて」
 夏樹は怪訝な思いで真理子を見返した。
「なんで」
「だって、ずっと言いたかったの」
 ここは自分だけの家ではない。夏樹とさくらと母の家だ。そしてこれからは、真理子の家でもある。
 それは変えがたい事実で、不思議と怒りも悲しみも感じなかった。夏樹の沈黙をどう受け取ったのか、真理子は続けた。
「ねえ、夏樹くん。あたし、思うんだけど……悲しいことや辛いことを、そんなに急いで受け入れようとする必要、無いんじゃないかしら」
 真理子は少し心許なげに、だがこればかりは間違いがないという顔で言葉を紡ぐ。
「だって、亡くした悲しみが、全部癒えることなんてないじゃない。たぶん、永遠に」
 夏樹は黙っていた。怒りや憤りにではなく、同意にだった。真理子の言う通りだと思う。けれど、だからこそ受け入れると決めたのだ──さくらのためにも。
「変なこと言って、ごめんね。あたしが言うことじゃないのにね」
「いえ。なんか、上手く言えなくてすみません」
「いいのよ」
 言葉にして伝えるのは苦手だ。突き放すような言葉しか口にできない。
 だからといって口を噤むのは卑怯だと分かっていても、真理子のように柔らかな言葉が、どうしても見つからなかった。
 だが何も言えない夏樹を見て、真理子はあろうことか嬉しげに微笑む。頼もしく、いつも気丈だった母とは似ても似つかないその人が。
「ちょっと、走ってきます」
 夏樹は言い、自室に向かう。
「お夕飯、取っとくから」
 柔らかく言った真理子の言葉に夏樹は軽く頭を下げた。