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瑞兆

 そのとき革命軍は志だけは高く、若く未熟な兵卒の集まりだった。政も道理も分からず、ただ世に太平をもたらしたいという思いだけで、田舎者の集まりが決起した。
 結果、出来合いの軍団にしては上々の戦果を上げ、雲散霧消することなく軍として何とか存続しながらも、未だに天下統一までには長い道のりが待ち受けている。
 今、塒としている城はゆかりある州の州牧から目をかけてもらい、譲り受けたもので、他人の家に間借りしているようなもの。ここでひとつ武勲を上げ、牧の地位でも欲しいものだが、なかなか思惑通りにことは進まない。
「殿。すこし、鎧と大盾が足りなくなってきております」
「あぁ。このところ戦続きだったし、兵の数も増えたからな。急ぎ作らせよう」
 入り用になった物品の項目を数える部下に返事をしながら、彼は椅子に腰かけたまま、新しく加わった兵卒の名前に目を通していく。新しく兵力が加わるごとにひと通り目を通すというのは、彼が軍を起こしてからずっと続けている習慣である。
「そういえば、凄腕の剣士がひとり加わったと言ったか?」
「えぇ……そう聞いていますが……」
 兵卒の統括を担っている年かさの男が答えて、歯切れの悪い答えに彼は首を傾げた。
「どうかしたか?」
「いえ。その者、たしかに腕は立つのですが、なにやら妖しげな術を用いるとかいう噂で」
「妖しげな術……?」
 彼は目を丸くしてから、「ぷっ」とちいさく吹きだした。
 途端、男は不満げに眉根を寄せ、戦場で件の人物の周囲にいたという者からの報告を話す。なんでも、その者の周囲にはいくら矢が射かけられようと悉く逸れて、鎧ひとつ身につけない剣士の身体に鏃が届くことは決してなかったのだという。
 身のこなしが優れているというだけでは説明がつかず、まるで超常の力がはたらいていたようだと。
「何だ、それは。みな、伝奇小説の読み過ぎじゃないのか?」
「殿っ。信じていらっしゃいませんな!」
 顔を赤くして怒られたが、あいにく彼は流言飛語の類いを信じる性質ではなかった。世に「妖精」と呼ばれる存在がいることは耳にしたことがあったが、己が目で見たことはなく、被害を被ったこともない。ましてや、人の姿をして妖術を操る者など。
 考えを巡らせながら新参者の名前の列を目で辿っていると、本名なのか偽名なのか分からない名前がひとつ。
 ──無限。
 出身は書いておらず、歳の頃はまだ二〇にも満たない。これがかの者の名か、と理解するが、その二文字から知れる情報はほとんどないに等しい。「妖術を操る」と噂されるほどの実力のその人物が、どんな人となりで、どのように剣を振るうのか。
「仮に、仙の類が加勢してくれたとなれば、我が軍に機運が向いてきた瑞兆とも言えるな。俺が会って確かめてこよう。その者はどこに?」
「今は、厩番をさせております」
「それは、結構な厚遇だ」
 極力、他の者を近づけたくないということなのだろう。彼は肩を竦めて、城の一室を後にした。
 火鉢の入っていた室内を出ると、肌を刺すような冷気が身体を包む。貸し与えられたこの城で冬を迎えるのは、これで二度目になる。「次の冬を迎える頃には、天下を統べる足がかりを掴めているだろうか」と思いを馳せながら、彼は厩へと向かう。
 軍を立ち上げた当初に同じ郷里から出てきた者たちなどは、当然名前も顔もすっかり憶えている。しかし、規模が大きくなり、人の数が増えるにつれすべての者を憶えるというわけにもいかなくなった。新参の者となれば、尚更。
「凄腕の剣士」という人物像を彼なりに想像しながら歩みを進めると、正殿や他の居室から離れた一角は人気がなく、ただ時おり馬の嘶きがどこからか聞こえるだけだ。
 ──一体、どこに?
 思い、厩に併設された小屋の方へと足を向ける。下男下女が控えるための粗末な小屋の前には、水を汲むための井戸があり、そこから釣瓶を吊り上げている人物の後ろ姿が見える。
 彼は半信半疑な胸の内のまま、ここまでやって来た目的である人物の名前を口にした。
「無限というのは、そなたか?」
「……はい」
 答えたのは、涼やかな声だった。男──無限は振りかえると、無表情な顔つきで彼に視線を返した。
 彼は一瞬、続けることばに詰まる。「凄腕の剣豪」という肩書きから想像した、隆々たる体躯も、無骨な印象の男もそこにはいなかったからだ。どころか、どこか良家の出のような品のようなものすら漂わせているように思える。
 背でひとつに束ねた長い髪はなめらかならがも豊かで、ちらつく白い雪片の中、濡れ羽色がやけにくっきりと映えている。ぽかん、とする彼を不審に思ったのか、表情は変えずに、無限が口を開いた。
「なにかご用ですか。出陣の知らせとか」
「いや、……いや、戦ではない。ただ、そなたに会いたくて」
「私に?」
 脈絡のない口ぶりだったから、無理もない。無限はぱちぱちと目を瞬いて、その仕草にわずかにあどけなさが混じる。
「あぁ、すまない。自己紹介がまだだったか。俺は、この軍の頭をしている。この先ともに戦う者の顔を見ておきたくてな」
「──殿?」
 無限はすこし驚きを顔に浮かべて、淀みなくその場に膝をつこうとする。彼は慌てて駆け寄ると、彼の身体に手をかけ制止した。
「よせ、よせ。雪だと言うに」
「存じ上げず、失礼を」
「やめてくれ。そんな大したものでもないんだ」
 顔を上げさせて間近から見下ろすと、無限は彼よりもひと回りほどちいさな体躯をしていた。
 年の頃はたしか一八で、彼よりも歳下だった──という余計な情報が、場違いにも頭の片隅を過ぎる。今の戦乱の時代、若くして戦場に身を投じる者も少なくなかったが、無限の場合は端整な顔立ちであることが、歳若い印象を際立たせているようだった。
 彼は身体を離そうとして、ふと無限の襟元から覗く肩口のようすに目を留めた。
「そなた、肩に負傷を?」
「はい。ですが、大した怪我ではありませんので」
 彼は眉を顰める。無限は無表情のまま言うが、血の滲む傷口には包帯代わりの布を巻いただけのようで、あまり好ましい状態には見えない。
「悪化してからでは遅いんだ。きちんと手当てをしよう」
「えっ? あの……ですが、殿」
 納得していないようすの無限を、医務室へと問答無用で引っ張っていく。当初の目論見からはかけ離れた展開になって、しかしどうしたわけか、無性に放っておけない心持ちが彼を駆り立てた。
 あいにく、医者は負傷兵の治療に兵舎へと出向いているため、医務室は空である。仕方なしに、彼が手づから手当を行う。
「殿は、医術の心得が?」
 寝台に腰かけさせ、露わにした傷口に消毒用の軟膏を塗っていると、無限が問うてきた。
「『軍』とも呼べない頃の素人集団だった頃は、自分たちで傷を塞ぐしかなかった。それで憶えただけだ」
「なるほど」
「その……『無限』というのは、通り名か?」
 感心したようすで無限が呟くので、彼もまた尋ねる。すると、そっけなく「そのようなものです」とだけ無限は答える。
「戦に身を投じる理由が、なにかあるのか?」
「他に行くところも……できることも、ありませんので」
「そうか」
 無限は答えに窮したように、すこし目を伏せて言った。「そんなことはあるまい」と彼は思ったけれど、それ以上は問わずにおく。どれほど困ったところがなさそうに見える者にも、周囲から畏怖されたとしても、人にはそれぞれに事情というものがある。
 傷口を覆うように包帯を巻き終わると、彼はひとつ息を吐いた。
「さぁ、終わりだ。明日以降も、欠かさず取り替えるように」
「承知いたしました」
「ならよい」
 無限が頷いたのを見て、彼は一仕事を終えた達成感に浸る。薬品を仕舞おうと踵を返そうとしたところ、袖を引かれて彼は驚いた。
「あの、殿」
「何だ?」
「その……殿は、お尋ねにいらっしゃったのではないのですか? 私に、異能の力があるのではないかと」
 無限の表情に乏しい顔に、かすかに曇った色が過ぎる。青みがちな瞳に落ちる影の色の繊細さを見て、彼はしばし押し黙り──見れば見るほど、戦場には不似合いなほどに、無限は端正な顔だちをしていた──ふと笑みを浮かべる。
「どちらでも、よい」
「え……?」
「そなたに不可解な力があろうと、なかろうと、どちらでもよい。我が軍とともに力を尽くしてくれるのなら」
 そう告げると、無限は両目をきょとんと見開く。
 たしかに彼自身、不確かな情報の真偽を確かめるつもりだった。けれど無限に相対していると、不思議と「見極めなければ」という気もちはどこかへ消え去ってしまっていた。他の将には、顔を顰められるかもしれない。だが、それだけのことだ。
「力を、貸してくれるのだろう?」
 手を伸べて尋ねると、無限のまなざしが戸惑ったように一刹那揺れたけれど、やがて立ち上がると一歩進み、彼の手を握り返した。
「はい……殿」
「よろしく頼む」
 無限はもう額ずくことも、頭を垂れることもなかったけれど、むしろ同じ高さで交わる目線がこの上なく好ましい。それで、彼は一層破顔する。
「この軍で志を同じくする以上、家族も同然。まずは、飯でも食おう」
「はい」
 噛みしめるように頷いた無限の背を押して、食堂へと促す。
 ──我が軍に機運が向いてきた、瑞兆。
 そのことが、不意に頭を過ぎる。ただし、その時彼が無限に望んだことは、軍の頭領を務める人間にしてはあまりにささいなものであったように思えた。
 ──何の心配もなく眠り、あたたかな飯を食ってほしい、という。
「太平の世をもたらしたい」という願いに劣らぬほど、それはささやかながらも、あまりに心惹かれる思いだった。
 しかしその後、無限は戦場で数々の武功を上げ、興国の建国に多大な貢献を果たし、文字通り歴史にその名を刻むことになる。彼と無限自身の予想を、遥かに上回るかたちで。