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小黒と無限が修行したり一緒におねんねしたりする話

 故郷を追われたばかりの頃。まだ、自分がどこへ行き、どう生きればいいのか分からなかった頃、よく夢を見た。
 かつての自分の森のこと。降り注ぐ陽差しと鳥の声。時折かたわらを通り過ぎる獣の足音。木々と土の匂い。
「小黒」
 故郷の木々のざわめきはたまに、小黒にそう呼びかけた。ゆっくりと、眠りのなかから目覚めを促すように。かすかな木漏れ日を瞼の上に受けて、やわらかな朝の気配に胸を膨らませる。昨日と同じように明日もまた、あの場所で目覚めると信じて疑わなかったあの日々。
「小黒、」
 呼ばれて、小黒は目を開いた。一瞬、故郷の森かと思い違ったけれど、ようすが違う。どこか分からずに首を巡らせる。
「……ん?」
 頭上を振り仰ぐと、甕の口からオレンジ色の光が降り注いで、ひとりの人影が自分を見下ろしていた。深い翡翠色の双眸、濡れ羽色の髪。人間だ。かつて、小黒から故郷を奪ったのとおなじ──けれど、違う。ほかの誰にも代えようがない、ただひとりの人。
「……師匠?」
 口にした瞬間、小黒は飛び起きた。
「ひぁッ!?[#「!?」は縦中横]」
 跳び上がった拍子に甕が倒れて、中から転げ出る。拍子に、近場の岩に後頭部をしたたかぶつけた。
「〜〜っ!![#「!!」は縦中横]」
「寝ていたのか?」
 悶絶している小黒のところへ、彼──無限がゆっくりと歩み寄ってきて、膝を付く。さっと頭が冷えた。
 ところは、人里離れた原生林の奥地。こんな場所でなにをしていたのかと言えば、瞑想だ。修行の一貫として気を高めるための。人間の気配がなく、森から力を得られる格好の場所を無限が選んだ。誰にも邪魔されず、静謐で──ぐっすり眠るのにもうってつけの場所だった。
「師匠! あっ、そっ、こ、これはっ、一種の精神統一で──」
「寝ていたのか」
 重ねて問われて、小黒は観念する。その場に正座をして、頭を垂れた。
「……はい」
「寝てはだめだな。寝ることと、瞑想とはまったく別のものだ」
「分かってます、師匠」
 小黒が無限に弟子入りをしてから、およそ数ヶ月。
 龍游での事件の事後処理がひと段落つき、無限の当面の任務に片がつくと、小黒の修行のためにと師弟はふたりで山へ入った。小黒のかつての故郷にも劣らない、古く立派な森だ。いわゆる「仙境」と呼ばれる場所だと、無限は言った。かつてはもっとたくさんの仙境が存在したが、人類が繁栄するのに反比例して、だんだんと減ってしまった。ここは、まだ現存するうち数少ないひとつだという。
 そこで、さぞ苛烈な修行を行うものと思いきや──たとえば、無限が直々に稽古をつけてくれるとか──、言いつけられたのは「瞑想を行え」ということだった。
 そういえば、まだ出逢いたてで彼のことを「悪人」だと思い込んでいた頃、修行を始めたばかりの時も同じようなことを言いつけられた。まずは金属に慣れることから始めるように。基礎を身につけるのに、こうしたものは必要なプロセスらしい。
 それにしても、
 ──思ったよりも地味すぎる。もっと派手でかっこよくて楽しい修行はないんですか。
 などとはまさか口にできず、渋々励んでいる次第だが、なにぶん妖精にも向き不向きというものがある。
「師匠、瞑想をしていて眠くならないコツはないんですか」
「ないな」
 一刀両断にされて、小黒は唸った。そのようすを見て、無限が腰を上げる。折檻でも食らうかと思ったけれど、おそるおそる見上げた師は怒ってはいなかった。
「集中が切れてしまっては意味がない。一旦休憩するとしよう。夕飯を買ってきた」
 微笑を浮かべて、小黒に手を延べる。
「……はい!」
 現金なもので、そのしぐさひとつで、小黒の眠気はすっかりと吹き飛んでしまったようだった。


「深く瞑想をした状態とは、眠るのではなく、『目醒めた』状態のことだ」
 無限が言ったのは、夕飯を食べ終え、寝支度を整えた後のことだった。
 小黒の修行で山に留まる間、師弟ふたりは山中のやしきに身を寄せている。簡素な四合院造りの建物は無限が修行の際に拠点にする場所だと言い、今まで常駐する者がいなかったために埃が溜まってはいたが、掃除をすれば問題なく生活することができた。
 寝台へ入った小黒に布団をかけてから、無限は蝋燭の揺れる燭台へと歩み寄る。いつもの装束ではなく寝間着を纏った師の無防備な身なりは、未だにあまり見慣れないものがあった。彼が「最強の執行者」として妖精にも優る強さを誇ることは充分知っているし、たとえ今襲撃を受けたとしても、決してやられたりはしないだろうことも分かっている。
 しかし毛皮も爪もない人間としての姿は、獣の小黒からするとやはり頼りなげに見える。
「……めざめる?」
「そうだ。漫然と時を過ごすのではなく、意識を明瞭に保ち、世界のありように気づくことができる状態。その状態を保てれば、寝ていながら敵の襲来を察知することさえできる」
「世界に、気づく……?」
 小黒は考え込んで、天井を睨みつける。師の言うことをなんとか理解しようとするけれど、小黒にはまだすこし難しいように思える。
「小黒。世界を理解するには、どうしたらいいか分かるか?」
「どうしたらいいんですか」
「最もかんたんなのは、己を理解することだ」
 言い、無限は灯火を消した。とたんに部屋は真っ暗になるが、夜目が利く小黒は、暗闇の中でも師の背中をちゃんと目で追うことができる。
「……よく、分からないです」
「その内分かるようになる」
 言って小黒のほうを見やった無限の吐息が、かすかに白く見える。
 季節は秋。山中ではひと足先に冬がやって来て、小黒ですら、寒さが身に堪える。
「師匠、寒くないですか?」
「平気だ。慣れてるから」
 言われたけれど、白く筋張った無限の手を見ると、小黒は思わず寝台を抜けださずにはいられなかった。
「小黒?」
 師の寝台に歩み寄り、きょとんとした彼の手を取ると、あまりあたたかいようには思えない。
「師匠の手、つめたいです」
「人だからだろう。お前ほど体温が高くはない」
「む……」
 まだ訝しんでいる小黒に、無限がふと笑う。
「いっしょに寝たいのか?」
「えっ!」
 小黒は、思わずかえるが潰れてひっくり返ったような声を出してしまった。かっと顔が熱くなって、頭がこんがらがる。
「ちっ、ちがう! 師匠が寒そうだから!」
「なるほど。たしかに、風邪をひいては修行にならないからな。ほら、」
 あっという間に抱き寄せられて、同じ寝具にくるまる。人間の体温を感じるとますます、小黒は顔が火照るような気がする。基本的には、妖精は病をしない。当然、風邪などという瑣末な体調不良とも無縁だ。それを知らない無限ではないはずだけれど。
「寒くないか?」
「うん……師匠は?」
「わたしは……まぁ、あまり変わらない」
 師の言いように、小黒はすこしムッとする。自分がたいして役に立っていないと言われているようで、悔しい。撫でられれば条件反射的に尾が揺れてしまうけれど、断じてよろこんでいるわけではない。
 しばし悶々として、ふと小黒は思いつく。
「あっ、師匠!」
「小黒。もう寝たほうがいい」
「あのっ、いいことを思いついた!」
 無限が「なんだ?」と問いかえす前に、小黒の体は溶けるようにぐにゃりと伸縮していた。今まで抱きかかえられていた子どもの数倍はあるだろう化け猫が、たちまち寝台の上に姿を現す。
「な、」
 小黒は変化へんげを終えるなり、目を丸くする無限を腹に抱きかかえるように体躯を丸める。そうして体をちいさくしてもまだ、天井に付くほどの大きさだ。
「どうですか、師匠!」
 無限の顔を覗きこむと、彼は化け猫と化した小黒の毛並みに興味深げに触れる。
「……思っていたより、やわらかい」
「へへっ。いいでしょ?」
 問うと無限は思案した後、
「わるくない」
 とだけ零した。表情に乏しい師の顔のなかに、僅かばかりうれしげな気配を悟って小黒は満足する。ふさふさとした尾を丸めて、彼の長い髪ごと、体をあたたかな毛皮で包んだ。
 実を言えば小黒は長いこと、人間のことをおろかだと思っていた。他の獣よりも脆いくせに自分から毛皮を捨てて、夏の陽差しや冬の寒さに弱くなるなんて。けれど今は、人間がそのような姿をしていてよかったと思う。だからこそ、こうして小黒とぬくもりを分かち合えるのだから。
「おやすみなさい、師匠」
「あぁ……おやすみ、小黒」
 同じ体温を共有していると自然と喉が鳴ってしまって、けれど間もなく、小黒は心地よい眠りのなかへと落ちていった。


 衣擦れの音で、目を覚ます。
 目を開けると陽の光が眩しく、小黒は朝が来たことに気づく。
「んミャァ〜」
 伸びをしてから頭上を見上げると、無限が小黒を見下ろしていた。朝のきらきらとした光に照らされて、寝乱れた彼の髪はずいぶんフワフワとして見える。
 昨晩、小黒が抱きかかえていたはずの師は今や、小黒よりもずっと大きくなっている──否、小黒がちいさくなったのだ。どうやら眠っている間に、変化を解いて元のちいさな獣に戻ってしまったようだった。
「おはようっ、師匠」
「あぁ……おはよう、小黒」
 寝具に転がったまま言うと、なにやらぼんやりとした返事が返ってきて、小黒はぱちぱちと目を瞬く。
「どうかしたんですか?」
「いや……ふつうに、寝てしまって……驚いた」
 無限が言うので、小黒は首を傾げる。寝なければたいへんだろう、と思うけれど、これまで様々な戦場をくぐり抜けてきた無限のこと、もしかすれば「ふつうに寝てしまう」のは、彼にとっての「ふつう」ではないのかもしれない。
「よく眠れたってこと、ですか?」
「……そうだ」
 なぜだか不本意そうに、無限は首肯する。途端、小黒はふしぎと勝ち誇ったような気分が湧いてくるのを感じた。つまり、それは──小黒があたたかかったから?
「ひひひっ」
 とほくそ笑むと、無限は決まり悪げに寝台を立つ。その瞬間、胸にこみ上げた感情のことを、小黒はうまくことばにできない。けれど考えるより先に体が跳ねて、気がつけば人型になり、無限にピタリとくっついていた。
「師匠っ。今、自分のことがすこし、分かりました!」
「そうなのか?」
「はい!」と、勢いよく頷く。きっと小黒は、自分が選んだこの人のかたわらを、これからも永遠に離れないだろうこと。そのためならば、退屈な修行にも励める気がした。
「修行、がんばります!」
 無限は深くは尋ねず、ただ笑みを浮かべると、小黒の頭をやわらかく撫でた。
「そうか……。朝食にしようか」
「はいっ!」
 勢いよく頷いて、小黒は彼の袖をしっかりと握りしめた。ようやく見つけた、この世でたったひとつの居場所を、決して手放さないように。