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契り

prologue

 空はすっかりと陽が暮れて、森のどこか遠くのほうで鳩にも似た鳥の声が聞こえる。かつて、小黒が故郷の森にいた時は、四六時中野鳥の声を聞いていた。けれど今では、聞こえてくる鳥の声もかすかだ。
  小黒 シャオヘイ が弟子入りをして、はや数ヶ月。都市から都市への移動中、小黒は師とともにしばしば森の中を休憩場所とすることがあった。しかし故郷のような森に巡り会ったことは、いまだない。もし似たような場所を見つけたとしても、もうそこを「 住処 すみか にしたい」と思うことはないような気がしていた。
 小黒が求めていたのは、失った「場所」の代わりになるようなものではないと気づいたから。今、小黒のそばには「居場所」となる存在がいる。それで、充分なのだった。
「小黒。疲れていないか?」
 ある晩のことだった。焚き火を囲んでいると、師──無限が言って、小黒はきょとんと彼の顔を見上げた。
 ともに放浪の身になって以来、無限と小黒は二日に一日程度、野宿で夜で過ごしている。宿泊費を節約したいであるとか、あるいはホテル暮らしに飽いて人里離れたあたりでひと息つきたいとか、理由はその時によってさまざまだ。
 けれど小黒も無限と同様、外での暮らしが長いために、野宿を苦にしたことはない。
「疲れてなんかないよ」
「だが、もう三日もベッドで寝ていない」
「そんなの慣れてるし」
「……そうか」
 食事もとった。夜も更けてきた。師弟のふたりは、後はもう寝るだけという状況だ。
 小黒があくびを噛み殺しながら言うと、無限は納得したのかそれ以上問うてはこない。夜風が寒く、小黒は人型への変化を解いて毛むくじゃらの姿になり、四肢を折り曲げて香箱座りをする。
「ねぇ、師匠」
「うん?」
「師匠の霊域の中の家に泊まったら……」
「だめだ」
 一刀両断にされて、小黒は「うっ」とことばに詰まる。
「……けち」
 思わず零れる悪態は、必ずしも本心ではなかった。無限が、決して小黒に意地悪をして言っているわけではないと分かっている。それでも、勝手にへそは曲がってしまう。
「他人の霊域に入っちゃいけないなんて、分かってるのに、なんで入れてくれないの?」
 問うけれど、無限は答えない。他人の霊域に入ることの危険性を教えられたのは、小黒がまだ、無限のことを悪人だと思っていた頃のことだ。
 小黒も今なら、充分に理解できる。信頼できない相手の霊域に入ることが、どれだけ危険なことか。なにしろ先の 龍游 ロンヨウ 事件で、充分に身をもって学んだ。
 けれど、ちょっとくらいはいいのに──と、小黒は思う。人間というのはおかしなところでお堅いというのか、事件を解決し、師と弟子という関係になり、ともに旅に出ることを決めてからも、小黒が無限の霊域に入ることはゆるされない。
 あの、きれいで清らかな空間に入ったのは、後にも先にも筏の上での一回こっきりだ。
「師匠は僕の師匠でしょ。師匠は僕の霊域に入るのもこわいの?」
「お前の霊域は……おそらくまだ、ちいさすぎて入れない」
「ちぇっ」
 師の的外れとも言える答えに、小黒は思わず毒吐く。おそらく自分が、子どもっぽく駄々をこねているように見えるのだろうと思うと、余計に腹が立った。
 とはいえ、なぜそれほど無限の霊域に入りたいと思うのか、拒まれることに腹が立つのか、小黒自身にもよく分からなかった。ただ少なくとも、無限に自分を信じてもらえないこと、自分の無限への信頼を理解されないことは、両方ともが悲しいように思うのだ。
 拗ねたままゆらゆらと揺れる灯を睨んでいると、だんだんと瞼が落ちてきて、小黒は気がつくとウトウトとしている。風に揺れる木々のかすかなざわめきが、歩き疲れた小黒の体に睡魔を運んでくる。
 そのままどれほど経ったのか、
「小黒、」
 静かに呼ぶ声を聞いたのは、小黒が夢のなかに片脚を突っこんだ時だった。夢うつつで返事をしたような記憶があるけれど、定かではない。
 ふと、ふわりと身体が浮いて、なにか温かいものに包まれた気がした。しかし確かめようにも、小黒は眠気に抗うことができない。
 その後ぐっすりと寝入った小黒が、無限に抱きかかえられて一夜を過ごしたと理解したのは、翌朝目を覚ましてからのことだった。