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春の雪

 そのとき、世界は横倒しになったまま、ぐるぐると回転していた。馬車の車輪のように休むことなく回転し続ける空は、けれど見る限りよく晴れてすがしく澄み渡っている。風は春らしくやわらかさを帯び、一面に広がる若草の絨緞は瑞々しく生命力に満ちていた。
 無限は木立の木の下に横たわって身を起こさぬまま、羊のようなかたちの雲がゆっくりと北方へ流れていくのを眺めていた。正確には起き上がらないのではなく、起き上がれないのだ。
 戦場で命を落としかけて北河という男に救けられ、目を覚ましてから今日で二日。もうそろそろいいだろうかと、介抱した男の了承も得ずに家を後にしようかと思ったが、身体は言うことを聞かず、いくらも進まない内に眩暈に襲われて立ち上がれなくなった。
 ──どうしたものか。
 動かぬ身体は荷物同然で、運び手がいない以上どうしようもない。動けるようになるまで倒れていることはやぶさかではないが、どうせ自由がきかなくなるなら飯をきちんと食べてくればよかった──と、他人ごとのように思案しているうち、かすかに草を踏む音がした。
 人にしてはやけに軽い足音がさく、さくと響いて、視線の先からまん丸な身体と四つ足の持ち主がやって来る。やがてひっくり返った無限の目の前で立ち止まると、でっぷりとした腹を地面に付けて腰を下ろした。
「……」
「……ンナァ」
 無限はおぼろげな視界の中、髭の生えた顔を見上げる。猫だった。それも、おそろしくふくよかな。無限が介抱されていた家に住んでいるが、たしか家主は「勝手に住みついた」と言っていた。
 なにをするでもなく威圧感のある表情で見据えてくる猫と、ぼろ雑巾のような状態の無限とでしばし睨みあいをしたが、意思の疎通があったわけでもなければ威嚇しあうわけでもない。
 ただ、互いに目と目で見つめ合う不可思議な時間が過ぎてしばし。人に慣らされた猟犬であれば助けを呼びに行くなどという芸当もできただろうが、横柄な顔を崩さぬ猫には望むべくもない。
 ──いつまで、こうしていれば……?
 さしもの無限も痺れを切らしそうになったとき、今度ははっきりと人間のものだと分かる足音が響く。目線を向ける前に声が降ってきた。
「おぉ、ここにいた」
 言うなりしゃがみ込んだ男は、野良仕事の最中だったのかくわを肩に担ぎ、余った手を無限の顔の前にひらひらと翳す。
「生きてるか? 懲りないよなぁ、お前さんも」
「……」
 無限をたすけた目の前の男──北河が言う。心外な言われようだが、否定もできずに無限は押し黙る。
 それというのも、一命を取り留めて目を覚ました後、無限が脱走未遂を犯すのはこれが二度目だったからだ。一度目は寝台から落ちて動けなくなっているところを見つかり、今度は家からほど近い雑木林の中で力尽きた。
「大丈夫」か「大丈夫じゃない」かで言えば、どう考えても後者である。とはいえ、どう説明したらいいのか分からず口を開かないままでいると、北河が呆れたような顔で足元の豊満な猫を撫でながら尋ねる。
「なんで逃げ出すんだよ? そんなに不自由な思いはさせてなかっただろ? ……そりゃ、飯はそんなに豪勢じゃあないけどな?」
 北河のことばは、最後には自信なさげに萎んだ。なにを気後れすることがあるのか分からないが、そのことば通り、不満があって逃げ出したわけではない。
「……もう、動けるかと」
「目が覚めてからたった二日だぞ? ちょいと気短かすぎやしないか?」
 北河が驚いた顔で言い、はじめて無限は「無茶だったのか」と思う。こうして事実、動けなくなっている以上、北河の言うことが正しいに違いない。けれど、どうしてもじっとしていられなかった。
 癖で腰に手をやると、かつて昼も夜も佩刀はいとうしていたそこにはなにもなく、丸腰だ。剣を手にせずに過ごすことなどいつ以来か記憶にないほどで、ひどく心許なさを煽られる。あたかも、荒野にひとりきりで立たされたかのような。
 どこからともなく湧き上がる焦燥感に煽られて、じっと寝台に横になっているとどうしようもなく思うのだ。
 ──行かなければいけない、と。
 どこへかは分からない。けれどそうしなければ、病人のように──事実病人なのだが──横たわったまま、もうこの世界のどこにも行けなくなってしまうのではないかという不安に駆られた。
 穏やかでない無限の胸中とはうらはらに、北河の慣れた手つきが傍らの猫の喉元を擽ると、心地よさげな息づかいが聞こえてきて、昼下がりの木漏れ日にひときわ呑気な空気が入り混じる。
「なぁ……。こいつが荷馬車も引かず、畑仕事もしないのに、どうしてこんなに堂々としてるか分かるか?」
 じんわりと沁み入るような声で尋ねられ、思考の海に沈もうとしていた無限は意識を浮上させて、目を猫の方へと向けた。そこには陽だまりの中に腰を落ち着けた毛玉の姿があり、陽光に眩く毛並みを輝かせて、やけに堂々とした佇まいを見せている。
 人の手で養われていることへの気後れなど微塵も感じさせぬ、ふてぶてしい顔をいくら眺めても、しかし無限の中に答えは見当たらなかった。
「……分からない」
「ちゃあんとまっとうに、『生きる』って仕事をしてるからだ」
「『生きる』……という、仕事」
 一瞬反芻することにも苦労したけれど、北河のことばはふしぎな余韻を伴って、無限のなかにこだました。そんなことを言う者は、過去無限が出会った者のなかにはひとりもいなかった。
 一四の時、他人とは違う能力を持てあまして実家を飛び出し、名前も過去も捨てて放浪の身となった。それからというもの、あるときは用心棒として、あるときは傭兵として、ほとんどの時間を戦に費やしてきた。
 戦わなければ陣営を追い出され、食うものも寝る場所も失って当然だった。自分の「居場所」など戦いのなかにしかなく、折れるか錆びるかした剣は当たり前のように用済みになり、捨てられるものと。
 だというのに無限を救けた男は、さもはじめからそれが世界のことわりだったかのように、軽妙に言う。
「『飯桶ごくつぶし』ってのは、嫌な言いかただ。どんなに役立たずに思われたって、立派にそれぞれの生を全うしてんだろ。こいつも──お前も」
 北河のはしばみ色の双眸が無限の方を見て、やわらかに細められる。無限は答えに窮して、なんとかことばを絞り出そうと喘ぐ。北河のことばを呑みこむのには、痛みのようなものが伴ったけれど、なぜなのか無限には分からなかった。
「そんなことは……はじめて言われた」
「ん、そうか?」
 なんでもない風に北河が口角を上げたときだ。視界の端を不意に白く瞬くものが閃き、
「──敵?」
 瞬間、頭を過ぎる間に、動かないはずの身体がひとりでに動いていた。
「はっ……あッ!?[#「!?」は縦中横]」
 北河の胸ぐらを掴み、背後に庇うように身体を入れ替えると同時に鍬を奪い取る。間抜けな声で尻餅をついた北河に構う暇もなく、神経を研ぎ澄ませるも敵の気配はない。しかし、精霊の放つそれによく似た白い光は目の錯覚ではなく、明るい陽射しの中にいくつも浮遊していた。
「……なんだ?」
 無限が怪訝に思うと同時に、足元に腰を落ち着けていた猫が走りだしたと思うと、白い光に一目散に飛びかかる。まるで、窓に張りつく壁虎やもりを追いかけるときのように。
 一度では捕獲できず、何度か跳躍してじゃれつく。懸命になってはいるが、特に警戒はしていないようだ。
柳絮りゅうじょだよ」
「柳、絮?」
 正体を見極める前に言われて、無限はきょとんと振りかえる。すると北河が、おかしげに顔を緩めた。
「知らないのか? 柳の綿毛だ」
「……知らない」
 ひと言答えて、無限はその場にへたり込む。
 北河曰く、無限が敵襲と勘違いしたものは白い綿毛を纏った柳の種子で、春になるとそこらじゅうに飛散して、雪景色と見まごうほどになるらしい。戦場を駆け巡る日々の中で見落としたのか、それとも見たけれど忘れてしまったのか、とかく無限の記憶のなかにはない代物だった。
「ぷっ……お前、剣の腕は立つみたいなのに、変なとこ子どもみたいだな」
 ちいさく吹きだして言った北河は、無限が人殺しを生業なりわいにしていることに頓着するようすもなく、手を伸べる。無限はぼう然としたまま手を引かれて、なんとか立ちあがり、その肩に縋った。
 命を落としかけてここへ運び込まれてからというもの、過ぎていくのは退屈なまでに平凡な日々のはずなのに、無限にとってはそこここに「はじめて」が転がっている。
 誰かに体重を預けるのも、肩を借りて歩くことさえ。はじめての体験にすこしの戸惑いを覚えながらも、無限は一歩ずつゆっくりと歩を進めた。