Loading...

彼が年号になったわけ

 夜の闇の中、北風が吹き抜けていく音が聞こえた。
 城の回廊を歩いていた無限はふと立ち止まり、中庭の方へと目を向けた。誰か、なにかに呼ばれたような気がしたのだが、そこにはなにもなく、ただ月光に照らされて、花も葉も落とした紫薇さるすべりの樹があるだけだ。
 戦を終え、つるぎを鞘に収めたとき。宴の席を離れ、ふとひとりになったとき。そうした胸騒ぎを覚えることは、幾度もあった。ふと手のひらに目を落とし、念ずると、そこから光を帯びた蝶のような精霊が生じ、宙を漂う。
 自身に人とは違う能力があると自覚したときも──生家で疎まれ、家の隅に追いやられていたときも、そして行き場を失って戦いの中に身を投じたときも、いつでも無限のそばにあったのは、人ならざるその輝きだった。
 一四になるかならないかの頃、生まれた家を離れて戦場に身を投じた。世が定まらない戦乱の時代、訪ね歩く労を割かずとも戦場はそこここにあり、剣の腕さえ磨けば寝る場所と食うものにはありつけた。
 決まった主にも仕えず、しばらくの間転々としながらも、剣の扱いに慣れると腕を買われて、なんとか生き延びることができた。けれどどこでなにをしていても、どんな武勲を立てたとしても「自分の居場所はここではないのではないか?」いう疑念は、頭を離れることはなかった。
「──かし、此度こたびも剣聖殿の活躍は見事だった」
「まさしく。神のごとき活躍とはあのことよ」
 不意に話し声が聞こえて、無限は瞬時に精霊を消し去る。声は、回廊を抜けた大広間の方からのようだった。ずいぶんと賑やかしく、今夜も戦で功績を挙げた兵卒へいそつたちが、意気揚々と祝杯を挙げているようだ。
 このところの軍は、以前にも増して勢力を伸ばしつつある。頭領が軍を起こした後、数年で城をもつまでに至ったのだから、おそらく大したものなのだろう。
 挙兵した当初こそ、頭領含め若い者が多く集まっていたこともあり、「名を成そうという血気だけは盛んな烏合の衆」のようなものだったという。しかし天下統一など夢のまた夢のような状態だったところから、徐々に力を蓄え、頭角を現し始めた。特に、無限が軍に加わってからの躍進は目覚しかった。
 近頃では特に手勢の数も増え、いよいよ「軍」としての体裁が整ってきた雰囲気がある。それにつれて、どうやら“剣聖”無限の名は、今や軍の中では知らぬ者のおらぬほど、広く知れ渡るようになっているようだ──無限は自身についての風聞に疎いため、詳しくは分からないが──。
 自分から「剣聖」などと名乗ったことは、一度もない。しかしふつうの人間からすれば、無限の剣術は神業のように見えることもあるらしい。
「剣聖殿の奇跡の技さえあれば、我が軍には楯も鎧も必要ないやもしれん」
「然り。剣聖殿あらば、我が軍が天下を手にするのも近い」
 褒め殺しのようなことばの押収に、すこし居心地が悪くなり、無限は踵を返す。悪辣なことを言われているわけでなくとも、自身に降りかかる過度な関心というものはときに鬱陶しく感じた。それに元来、大勢が集まる賑やかしい宴の類を特別好む性質でもない。
 歩みを進めようとした矢先、まだ続いていた噂話が耳に入る。
「それにしても、我が殿は剣聖殿にご執心なことよ」
「それは、あれだけの剣の腕なのだ。仕方あるまい」
「しかし……ほら、噂もあろう。我が殿には鶏奸だんしょくの気があると」
 男たちの呑気な会話を耳にした時、無限にはどういった意味か分からなかった。ただ、なにか引っかかりのようなものを覚えて、聞き流すこともまたできない。
「また、そのようなことを。殿は女嫌いなだけよ」
「それが怪しいと言っているんだ。剣聖殿はほれ、あの美丈夫だろう? 俺も、剣聖殿ならば──と、思ったことがないわけではない」
「はは、物好きめ」
 しばし、いかにも酒の席らしい豪快な笑い声が聞こえてきて、無限はその場を離れた。
 なにか思わぬことを言われたことは、理解できた。けれど男たちが言ったことが、つまりどういったことであったのか、無限にはついによく分からなかった。「鶏奸」の意味は、無限も知らぬわけではない──極めて、ぼんやりとだが。しかし、「鶏奸」と自分たちの頭領、それに無限の存在がどうやって繋がるのかは、分からなかった。否、こころが理解を拒んでいるような感じがあった。
 掻き乱された胸の内のまま自室に向かおうと足早に歩いていると、ふと声がして、
「──無限?」
「……殿」
 回廊の途中、ほとんど鉢合わせのようにして主とばったり顔を合わせる。本人としては威厳を演出しているらしい無精髭に、人好きのする表情を湛えた顔はいつもと変わらず、気が抜けるような思いがする。
 とっさに頭が回らなかったが、遅ればせながら思いだす。たしか、今宵はとある近隣に古くから伝わる名家の会食に招かれたと言って出かけていたはずだ。
「今お戻りですか?」
「あぁ。お前は、寝るところか? まだ起きているならば、丁度いい、一献付きあわんか?」
「……酒なら既に、もうお召しになったのでは?」
 少々赤ら顔をした主に向かって、無限は思わず顔を顰めた。すると彼はばつが悪そうな顔になったが、言動を改めるつもりはないらしい。
「左様。しかし気位の高い名家の人間と呑む酒など、とてもではないが呑んだ気がせん。寝る前に呑み直したい……だめか?」
 窺うような目線を寄こされて、無限は逡巡した後、ちいさく首肯した。
「では、一杯だけなら」
「そうこなくては」
 途端、目に見えて上機嫌になった主の顔を見て、無限は苦笑する。彼の自室へ招かれ、燭台の灯だけが照らすほのぐらい室内で酒を酌み交わす。
 酒盅ぐいのみに注がれた量はささやかで、しかしながら華やかな香りは、それだけで人を酔わせるのに充分だった。主は役目を終えた満足感からか、ひと息に酒を煽ると早々に二杯目を注ぐ。
「俺には教養などない。名手と言われる者の琴やら琵琶やらを聞かされても、音色の違いなど分からんのだ。それをあのたぬき親父、さんざんつまらぬ講釈を垂れおって」
「よく、お務めを果たされました」
「いっそ、そなたのほうがああいった場には相応しかろう」
 彼がため息交じりに言ったことばが理解できず、無限は一瞬呆けてしまう。すると彼はおかしげに笑って、問わず語りに言った。
「以前一度だけ、そなたの笛を聞かせてもらったことがあっただろう。実に見事な腕前だった」
「それは……、お忘れください。さぞお聞き苦しかったでしょう」
「なにを言う。俺には趣などというものは分からぬが、そなたの笛の音は今だに忘れられない。またいつか、聞かせてもらいたいと密かに思っていた」
 にわかに気恥ずかしくなって無限は盃に口を付けたけれど、思わず塞いでしまいたくなる主の口からは、率直な賛辞が零れ出てくる。
 主の、あまりに屈託なく他人を褒めそやすそぶりが、無限は苦手だった。正確には、苦手というよりも──困惑するのだ。無限には勿体ないような親愛の情を、受け止める器がおそらく足りぬのだろう。
 何と言おうか迷い、無限は手持ちぶさたに盃の縁を撫でながら呟く。
「……あなたは、異なことを仰る。これは剣を握り、人を殺めるしか能のない手です」
「しかしこの手に、我が軍は幾度救けられたことか」
 言って、何気ない所作で無限の手を取った彼は、慈しむように撫でた。酔いが回り、すこし虚ろになった主のまなざしは、彼のそれよりひと回りほどちいさな無限の手のひらに注がれている。
「……うつくしい手だ」
 半ば独りごちるような台詞に、無限の中でざわり、となにかの感情が漣立つ。おそらく平素であれば、「酒の勢い」で済ませてしまっていたかも知れない。けれど今宵は聞き流すことができなかった。先ほど耳にした声が、脳裏に蘇るものだから。
 ──我が殿は剣聖殿にご執心なことよ。
 ──殿には鶏奸の気がある。
 冷やりとしたものが背を伝って、無限は喉から声を絞り出すのが、やっとだった。
「殿……?」
 瞬間、はっとしたようすで主は手を放した。
「──す、すまん。どうしたのだろうな。やはり、すこし呑みすぎたか」
「えぇ……そのようです」
 慌てたようすで言いつくろう彼のことばはどこか上滑りしていて、取り繕う調子だった。無限は己が手で、彼に握られていた方の手を撫で、嫌な風に脈打つ心臓の音を何とかいなそうとした。
 自分は人殺ししか能がないと、そう思っていた。
 別のなにかを求められる日が来ようとは、終ぞ思っていなかった。求められたとて、それが意味するところも無限にはよく分からず、ただその夜は主の自室を辞すことしかできなかった。