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まるで木漏れ日のような

「以上が、先の龍游ロンヨウ事件で損壊した建物のリストです。これらはすべてあなたがたの戦闘により壊されたとの調査報告ですか、相違ないですか?」
 冠萱カンセンが報告書を読み終わった時、その場の空気がすこしひんやりとした気がした。
 しん、と静まりかえった茶館の一席で、小黒はどう答えていいか分からず、桃包ももまんをひと口頬張る。甘い点心は天にも昇る味だったが、あいにくこの気まずさのなかでは、おいしさにはしゃぐのも躊躇ためらわれる。
 隣に座った小黒のあたらしい「師」──無限は、平然とした顔で薫り高い茶を口にする。いつも通りの無表情で、特別取り乱したようすはない。その実、「最強の執行者」たる彼の内心がどうなっているのか、何人たりとも推し量る術はないけれど。
 ところは、龍游のなかでも歴史あるという茶館のひとつだ。同席しているのは、妖精館の館長である潘靖パンジン、冠萱、それに小黒と無限の四人だった。大都市のいわば「裏社会」で生きる館の面々が、なぜこうして一同に会しているかといえば、先の事件で館側が市に与えた損害を取りまとめる必要があったからだった。
 潘靖からの招集であったとしても、無限が館には足を踏み入れようとしないために、こうして人間の暮らす街中で話し合いの場が設けられている。
 趣のある茶館に足を踏み入れた時、小黒ははじめ、ふつうの人間の経営する店かと思ったけれど、店員や客をよくよく見ると、その大半は妖精であることに気がついた。こんな風に妖精により切り盛りされている店も、きっと龍游のなかにはたくさんあるのだろう。人間たちには、決して気づかれないかたちで。
「え〜っと、あのぉ……」
「壊した建物をすべて憶えてはいないが、大半はそうだろう、たぶん」
 いたずらを見とがめられたような気分で小黒が口ごもると、無限は否定もせず、淡々と首肯した。そうして、ちいさな茶碗をふたたび口に運ぶ。無限の返答に冠萱はひとつ息をつくと、
「──仕方ない。市長にはありのままを報告しましょう」
「ふたりがいなければ、ここは人間が住めない街になっていたんだ。承服してもらう他ない。私が先方へ出向こう」
 潘靖は急須に湯を足し、無限の茶碗に注ぐ。無限が茶碗を掲げ、目を伏せて感謝の意を表す。
「ただし、ふたりには今後もしばらくは事後処理に関わってもらう。手はいくらあっても足らないからな」
「それは、もちろん」
 龍游での騒動はひと段落したとはいえ、この街に日常が戻ってくるまでにはまだ少々時間が必要と思われた。
 全壊・半壊状態の施設や建物は数知れず。無限と小黒のおかげで破壊された建物群はまだ、「大地震が起こった」とでも言えば通るのかもしれない。しかし、人間社会を最も驚かせたのは、自分たちのあずかり知らぬ内に巨大な樹木がビルを食い破り、大都市の中心に突如出現していたことだろう。
 ──もう、ここを離れたくない。
 そう言った彼の声音を、小黒はまだ鮮明に憶えている。きっと、これからもずっと忘れることはないだろう。たった半日足らずの付きあいだった小黒ですらそうなのだから、他の仲間たちにとっては、もっとずっと重いものになるのかもしれなかった。「彼がいなくなった」という事実は。
 小黒はしばし沈思して、気づけば、不意に口を開いていた。
「あの……館長」
「ん?」
 話を止めて、大人三人の視線が一様に小黒の方を向く。自分が大人たちの話を遮ってしまったことに気づいて、小黒はすこし気恥ずかしさを覚える。潘靖が「なんだ?」と尋ねてくれるので、小黒はゆっくりとことばを紡いだ。
「その、洛竹ロジュ天虎ティエンフーたちは……今、どこにいるんですか」
 問うと、潘靖は無限と顔を見合わせてから、答えた。
「今は、館に捕らえてある。準備が整いしだい、総本部へ身柄を引き渡す。規則に則り、ひとりひとりに処罰を下すためな」
「そう……なんですか」
 うなだれた小黒を見て、潘靖は物言いたげにしたけれど、深く追求することはなかった。それから残りの用件を無限に伝えると、先に失礼すると言って、冠萱をともない店を後にしていった。
 ──処罰を下す。
 そう聞いた途端、頭のなかが、ことばにできないものでゴチャゴチャになる。洛竹たちは早晩、別の場所に連れて行かれる。館の規則に反することをしたから。だから、風息フーシーにお別れをすることもできない。仕方がないことなのかもしれないし、小黒とて以前のようにやさしい気もちだけでは、彼らのことを考えられない。けれど同時に、叫びだしたいような気もちにも狩られる。
 小黒は、風息の最期を知っている。けれど、洛竹や虚淮シューファイたちはそうではなかった。
「もういいのか?」
 押し黙っていた小黒に、ややあって無限が声をかけた。蒸籠のなかに残った桃包を示して言われるので、首を横に振る。
「もう、いいです」
「なら、包んでもらうか」
 言うなり、店員に持ち帰り用にしてもらうよう言いつけ、無限は茶碗を卓上に置いた。いつの間にか他の客はいなくなり、店内には無限と小黒ふたりきりだ。茶館の二階からは、窓の外の明るい昼の陽差しがよく見えた。露台に面した大窓には鳥籠が掛けられていて、そのなかのちいさな金糸雀カナリアが時おり歌声を聞かせている。
 藍の葉っぱで染め抜いたような空を見やっていると、無限が静かに言った。
「小黒……彼らに──風息の仲間たちに会いたいか?」
「え?」
 小黒は、顔を上げて無限の顔を見る。いつも通りの無表情からは、彼の考えをよく読み取ることができない。答えあぐねていると、彼は重ねて問うた。
「会いたいと思うか?」
「僕は……よく、分からないです」
 小黒がすなおな気もちを口に出すと、師は「そうか」とだけ言う。
「でも、洛竹たちには風息とお別れをさせてあげたい」
 ぽつりと言うと、それきり無限からは返事がない。
「師匠?」
 顔を上げると、無限の手が小黒の頭に乗って、やんわりと撫でてから離れていった。そこへ、店員が持ち帰り用に包んだ桃包を持ってくる。無限が流れるような所作で席を立ち、小黒を呼ぶ。
「行こう、小黒」
 その呼び声で、小黒は沈んでいた気もちがふわりと浮き上がるような気がした。
「うん!」
 一目散に無限のかたわらへと飛んでいき、彼の服の裾を握りしめる。無限はそれ以上なにも言わなかったけれど、小黒の背中に添えられた手のあたたかさは、胸のなかのモヤモヤをやわらかく溶かすのに充分だった。