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華胥の国に遊ぶ

「世界でいちばん」と小黒シャオヘイが思う人。
 まるで偶然のような、必然のような出逢いかたをして、拝師をしてから一三年。親子のような関係だと周囲には思われていたし、事実、無限の小黒に対する感情は、ほとんど親としてのそれだったと思う。
 小黒とて、親のような存在だと思っていた。すくなくとも、最初はそうだった。命の恩人であり、小黒に生き方を示してくれた人。それがいつからか、「大事にしたい」以外の感情も混じっていることに、自然と気づいてしまった。
 たとえるなら、肉汁のたっぷり滴った肉の塊を、残らずしゃぶり尽くしたい気分にも似た衝動。胃袋の中に収めて、自分の一部にしてしまいたいような。
 過去には、沸きあがる自分の感情と食物に対する飢えを混同していたこともあった。それが、人間が言うところの「情欲」であると知ったのは、その少し後のことだ。知ったところで、どう処理したらいいのか分からなかったけれど──なにしろ相手は師であり、あの無限だ──。
 自分で自分の感情を持てあましたまま、小黒は今年、一九歳になる。
「小黒」
 肩を揺すられて目を覚ました時、小黒は月影に照らされた龍游ロンヨウ館の回廊に座りこみ、欄干に凭れて寝入っているところだった。
「ほえ?」
 顔を上げると、見慣れた師の顔と、潮風に揺れる黒々とした髪が目に入る。それで──自分でも現金だと思うけれど──急激に意識が浮上した。
 どうやら回廊にいるのは小黒と、無限ふたりだけだ。しかしすこし離れた楼閣の中からは、賑やかしい宴の声が響いてくる。月が真円を描く今宵は、館の執行人たちによる定例の酒宴が催される日だった。小黒も声をかけられて顔を出したはいいものの、頭は自然、その席にいない人物のことばかり考えていた。
 今、目を覚ましたら突如現れていたその人は、かつて見慣れていた衣服ではなく、たっぷりとした袖と、裾を引きずりそうな衣を纏っていた。まるでほんとうにそのまま雲の上まで昇仙して、戻ってこないんじゃないかと思えるような。
 八年ほど前、無限は理由わけあって第一線を退いた後、けじめとばかりに身につける装束も替えていた。出逢った頃の見慣れた服装が記憶に残っている小黒にとっては、いまだ見慣れない気分もする。
「師匠? オレ、夢見てる?」
「いいや。呑みすぎだ」
 無限は呟き、小黒の頬を摘まむ。
「じゃあなんで、ここに?」
「お前が酔いつぶれていると、若水シュイに呼ばれた」
「えっ、そんなことで」
 小黒が驚くと、無限は呆れたような、けれど同時に慈しみの滲む笑顔を浮かべる。
「弟子の失態は、師の失態だ」
「若水が無限を呼んだ」という部分が引っかかったけれど、そう言われると、些細な部分はすっかりとどうでもよくなってしまった。
「寝床へ行くぞ。ほら、立ちなさい」
「あ、ち、ちょっと師匠っ」
 無限は言うなり小黒の身体に手を回し、立たせようとする。さすがに恥ずかしくなって身を捩ると、無限が珍しくたたらを踏んだ。彼自身思いもよらなかったのか、きょとんとしてから、もう背丈も自分より優る弟子を見て目を細めた。
「……おおきくなったな」
 触れあうほどの距離で見つめると、小黒にとって唯一無二の人が、ぬくもりだけでできたまなざしを返してくれる。途端、愛しさのような、苛立ちのような、言い表しがたい感情が小黒のなかに渦巻く。
 なにか言おうとするけれど、まともな返しは浮かんでこなくて、結局出てくるのは拗ねたような言いぐさだけだ。
「それは……おおきくなるよ。一三年も経てば」
「一三年──もう、そんなにか」
 月光に照らしだされたその人は、懐かしむような目をして、手塩にかけて育ててきた弟子の髪を撫でる。もう、すっかりと黒に戻った髪を。
 ──一三年。
 小黒にとって無限と過ごした年月は、果てしなく濃密で、そしてかけがえのない年月だった。たとえこれから別の誰かと同じだけの年月を過ごしても、決して塗り替えられないくらいに。
 けれど無限にとっては、どうだろうか。
 彼からもたらされるやさしさや愛情は、いつだって小黒の心を満たしてきた。一身に受けて育ってきた小黒が、誰よりよく知っている。けれどそれは空から落ちてくる雨のようで、惜しみなく喉を潤してくれても、決して手の中に捕まえておくことはできないものだ。
「ねえ、師匠……師匠にとって、オレは結局、何人もいた弟子の内のひとりなんでしょ?」
「……どうした?」
 問うと、無限はことばの意図を掴みかねたようで、訝しげに目を瞬いた。
 翡翠ひすいよりもなお深い双眸の色は、彼が「最強」の座を退いてからも変わることなく、小黒のこころをまっすぐに受け止めてくれる。けれどこんなにも近くにいるのに、まだ足りなくて、やけに喉が渇く。
「小黒?」
「師匠──ごめんなさい」
 おそらく、酔いでまともに頭が働いていなかったせいもあったろう。自分がなにをしているのかも分からないまま、顔を寄せ、くちびるを重ねる。無我夢中だったくせに、触れあった瞬間、はっきりと理解してしまった。
 ──あぁオレは、これがほしかったんだ、と。
 思わず腹の奥から衝動がこみ上げて、小黒は呼吸を忘れる。はじめて触れあわせたくちびるはすこしだけ湿っていて、今まで触れた無限の身体のなかで、いちばんやわらかだった。
 けれど夢心地に浸ったのもつかの間、顔を離すと目をまん丸くした師の顔に行き当たり、そのまま固まる。
「……あ……」
 さっと頭が冷えて、空っぽになる。欲求に任せて行動に出たはいいものの、その後のことを、なにひとつ考えていなかった。
 何の言い訳も思いつかないまま、しばらく無言で見つめあう。どんな説教を浴びせられるかと身構えたけれど、口を開いた師の声は、予想に反していつも通りだった。
「寝るぞ」
「え……? あの……、はい」
 言ったきり、無限は背を向ける。彼は小黒を咎めず、かといってわけを問い質すでもなく、その夜はなにごともなかったかのように眠りに就き、目覚めたその翌朝も、ふたりは普段通りに接した。昨晩のできごとはまるで、幻だったかのように。
 けれど小黒にとって、その夜のことは忘れられるものではなく、ひとりで行き場のない思いを抱えたまま、無限とはその後半年ほど会わずじまいになった。
 そして再会した時、無限はことばを交わせない状態になっていた。