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誓い

 ひとり 流離 さすら うことに慣れたのはいつの頃だったか、あまりに昔のことで記憶は定かではない。
 冠礼を過ぎる前に生家を離れて以来、ひとつ所に定住したことはなかった。夜露に濡れながら眠ることにも気がつけば慣れ、誰かとともに食卓を囲まないことが、いつしか日常になっていた。

 まだ朝靄の漂う薄明の中、宮殿の空気はすこしばかり冷えて人気はない。
 立ちながら船を漕ぐ衛兵を横目に、無限は歩を進める。重く動きにくかった官服を脱ぎ捨て、簡素な装いになるとすこしの心許なさが伴ったけれど、すぐさま「これが本来の自分だ」と思えた。冠も 玉佩 ぎょくはい もない、至極身軽な旅装束が自分には相応しい。
 大扉を押し開け、朝の光を浴びると明るさに目を またた く。一歩、外へと足を踏み出そうとしたときだった。
「無限!」
 足を止め、振りかえる。すると宮中の薄暗がりの中から、一国の主にしては軽装な皇帝が小走りにやって来るところだった。宮中とはいえ帯刀を常に怠らないようにと、無限がいくら言っても彼は終ぞ言いつけを守らなかった。
「……陛下、」
「もう行くのか! 見送りをすると言ったろうに!」
 怒りとも焦燥ともつかぬ表情がその顔に浮かんでいるのを見て、僅かばかりの感慨が胸に去来する。
 無限は今日、この宮殿を去る。彼が起こした革命軍に参加した時分から、年月にして五年足らず。無限の今までの人生を思えば、こんなにも長く他人と寝食をともにすることはなかった。
「……あまり騒ぎだてするのも、性に合いませんので」
 今日発つつもりだということは、既に皇帝には伝えてあった。形式的な別れの挨拶も済ませていて、けれど名残惜しいからと、皇帝は無限を送るための宴の手配を進めていたらしい。
 せっかくの手はずを台無しにすることを、怒るか、嘆くかと思われた皇帝だったが、しかしふと相好を崩すと言った。
「まぁ、そんな気はしていた」
 無限はことばを返しあぐねて、拳ひとつ分ばかり高い位置にある皇帝の顔を見上げる。
「仕方ない。すこし待っておれ。いいか、勝手に行くなよ!」
「えぇ……あの、はい」
 念押しのように指を指されて、無限はその場に取り残される。ややあって、皇帝は包みを手に戻ってきた。
「今日の宴で、渡そうと思っていた」
「私に?」
「そなた以外に、誰かいるのだ?」
 包みは片腕ほどの大きさだ。結び目を解き、無限は思わずきょとんと手のなかのそれを見下ろす。
「……これは」
 中から現れたのは、一差しの 洞簫 どうしょう だった。よく磨かれた艶やかな竹笛の表面が、慎ましく光を弾く。音色を試す前から、さぞ名のある職人に作らせたものだろうと分かる逸品だった。飾りとして配された翡翠も青々として、高級な品とみえる。
 無限は思わず陽の光に照らして、
「……うつくしいですね」
「いつかまたここに立ち寄った折には、そなたの手で音色を聞かせてくれ」
 人の善い皇帝は、うれしげにそう言う。しかし無限がそれきり何の反応もないのを見ると、眉根を寄せた。
「気に入らんか?」
「いえ……過ぎた品です。また拝謁が叶いましたら、必ずお耳に入れます」
「ならよい。それと、これを。どうせ路銀もろくに持っていないのだろう」
 ついでとばかりに銭袋を渡されて、無限はぎょっとした。
「いえ、それはさすがに、」
「いいから、持っていけ」
 ずしりと重い銭袋を強引に握らせると、皇帝は無限の手をしっかと握ったまま、ふと沈思するようなそぶりを見せた。
「……陛下?」
「無限。お前にとってこの城は、安らげる場所となっていたか?」
 なにを問われているのか分からず、無限は一拍置いてから答える。
「陛下には、いつも過分なお心遣いをいただきました」
「お前にとって、たとえかりそめでも家を与えることができたなら、と思っていた」
 皇帝の心もちは、どこかここを去る無限への心残りを窺わせる。
「剣聖」と呼ばれる無限をほとんど あやかし の類のように考える者が多くても、この首領だけはつねに無限の身を案じていたことを思いだす。
 無限の笛の音を、ことあるごとに「聞かせろ」とせがんでいたのも、単なる気まぐれかと思っていた。けれどどうやら、ほんとうに気に入っていたようだ。
 あまりに変わり者の皇帝である。「この先、自分がそばにいなくても大丈夫だろうか?」と案ぜられるほど。
「あたたかきお心、たしかに頂戴しました」
「俺の心など受けとっても、何の役にも立たなかろう」
 皇帝が冗談めかして言うので、無限も気もちばかり、表情を和らげる。
「いつでも、帰ってこい」
「はい。何かあれば、必ずお呼びください」
 無限は心の底から頭を下げ、これから新たな歴史を刻むことになる国の中心を後にした。