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遥かなる青

 小黒が人間について最初に知ったのは、「悪いやつら」ということだった。
 自分の故郷を奪った悪人ども。もうずいぶんと昔のことに思えるけれども、小黒を生んだ森は、それはそれはきれいなところだった。その故郷を奪った人間のことを、小黒はしばらく恨んでいたし、これ以上なにも奪われないことしか考えていなかった。人間になにかを与えられるなんて──人間たちを信じようだなとど、思ってもみなかった。
 人間についてふたつ目に知ったのは、どうやら料理だけは上手いらしいということだった。知ったのはもうずいぶんと昔、小黒がはじめて人間社会との関わりをもった頃だ。ひとりであてもなく彷徨っていた小黒を、食事に誘ってくれた人がいた。仲間たちから引き離されて、魚とココナッツだけで数日間をしのいだした後、ようやくありついた陸の食べものは格段においしく感じた。
 小黒を食事に誘ってくれたその人は──飯を奢ると言って、結局食い逃げ同然に店を出てきたのも今は懐かしい思い出だ──、まだ世界の広さを知らない小黒に、さまざまなものを見せてくれた。雄大な海、急峻な山々、田舎の家々、都市のありようなど。どれもが新鮮で、驚きに満ちていて、彼とともに見た鮮烈な光景は、ほんの数日間の記憶だったとしても、決して忘れることがないだろう。
 みっつ目。小黒にさまざまな世界を見せてくれたその人は、小黒が生涯師と仰ぐ人となった。名前を、無限という。彼に 拝師 はいし したのはもう、一二年も前のことになる。
 修行をはじめてから、ひとり立ちするまでの五年間、小黒は彼について学んだ。山に籠もって修行に励み、里に下りては修行がてら館からの任務を請け負ったり。思いかえせば能力を磨き、研鑽を積んだこの五年間は、小黒が無限といちばん長い時間を過ごした時期になった。ひとり立ちしてからは、任務と任務の間に会う程度で、軽く半年ほど顔を合わせない時間も多くなったためだ。
 けれど師は今でも、会えばいつだって小黒の話を聞いてくれる。どの任務が骨が折れたか、どの任務は容易かったか。どんな珍しいものを見て、どんな人に出会ったか。小黒がかまびすしく喋る間に、時折相づちを打つ程度だけれど、そこに聞いてくれる人がいるという事実が小黒には限りない安らぎを与えた。
 反対に、無限は自身のこなす任務について話してくれることもあれば、そうでないこともあった。当然かもしれない。師は弟子のことを誰より分かっているけれど、弟子が師のことをよくよく理解することは難しい。たとえ幾度食卓をともにし、幾度かたわらで夜を過ごしたとしても。
 それでも、無限との食事はいつも幸福だった。これまで、ともに囲んだ食事の種類は数え切れない。たとえば餃子、たとえばよだれ鶏。たとえば米粉、たとえば羊湯。たとえば、 肘子 ジョウズ
 面と向かって尋ねたことはないし、一見分かりにくいけれど、肘子が食卓に並んだ時、無限はごくごくわずかにうれしそうな顔をする。彼が浮き立ったような顔をするのが、小黒は訳もなくうれしくて、いつの間にか肘子は小黒にとってもごちそうになった。
 八角ほか香辛料の芳しい風味がついた甘辛いたれ、ぷるぷるとした食感の大粒な肉は思いかえすだけでも涎が出そうになる。思いきりかぶりつけば、よく煮えてやわらかい肉の食感が口いっぱいにひろがり、噛むほどにうま味が広がる軟骨にも、あまさずしゃぶりつく。
 ──小黒。
 かたわらを見れば、小黒を見守る師のあたたかなまなざしがあり、腹と心が満ちて、これ以上の幸福があるだろうかと思える食卓。
 しばらく食べていないから、こんな夢のなかにまで出てきてしまうのだ──と、思ったその時だ。
「小黒!」
「ひぇっ!?[#「!?」は縦中横]」
 悲鳴じみた声にたたき起こされた小黒は、目を丸くした。ぱちぱち、と目を瞬くと、そこは寝台の上だった。
「……はぇ?」
 ぽかんとした小黒の、文字通り目と鼻の先に師の顔がある。気づけば赤んぼうよろしく、彼に抱きついているような格好だった。
 そして小黒がかじりついているのは、肘子ではなく──あろうことか、彼の耳たぶだった。
 ──やわらかくて、甘いような気がしていたのは、無限の耳だったのか。
 と、寝ぼけた頭で思う。
 室内とはいえ、全く陽も差さなければ夜の闇も感じないのは、ここが霊域の中だから。任務の合間合間に無限に会った時、わがままを言って彼の旧家の一室に泊めてもらうのは、小黒にとっていわばひとつのご褒美になっていた。
 その時見た無限の顔は、なんとも表現しがたい。小黒にとって、はじめて見る顔であることは確かだった。小黒にかじられたらしい耳と、いつもは白い首筋に朱が上っているのが珍しい。激しい戦闘の最中ですら、赤面した彼の姿などあまり見たことがなかったというのに。
 いつもは整っている襟ぐりや髪まで乱れているところからして、もしかして、そこらじゅうを舐めまわしたのか。誰が?といえば──犯人は、小黒しかいない。
「師匠……えぇと?」
 小黒が、いかな懸命に修行を積んで相当な実力を身につけたとしても、寝起きの頭で正常な判断をすることは難しい。
 だから、失念していた。ここが無限の霊域であり、小黒の思考も彼に筒抜けであるということを。
 ──師匠って、おいしいんだなぁ。
 ふわふわとした頭で思った瞬間、小黒は彼の霊域から叩き出されていた。