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影山との関係を月島が打ち明けてくれないかなと思ってる山口忠のはなし

 二六歳を迎えた年の終わり頃。
 灰色の曇り空の下、見慣れた故郷の道に車を走らせながら、山口忠は今朝の天気予報のことを思いだしていた。
 ──そういえば、夜から雪になるって言ってたっけ。
 空には重たげな雲が幾重にも重なっている。向かう先は、仙台への列車が出ている地元駅。ロータリーに停車させると、後部座席に座っていた母がゆっくりと車から降りた。
「じゃあ、夜には戻るから。悪いけど、帰りよろしくね」
「うん。連絡して」
 車のウィンドウを下げると、母が手を挙げて言った。片田舎の駅らしく、あまり人気がない。ひとつしかない改札を、ぱらぱらとまばらに人が通っていくのが見える。
 じゃあ、と踵を返す母の後ろ姿を見送り、サイドブレーキを下げようとした時、山口は手を止めた。
 地元では目につきやすい、背の高いすらっとした人影を見た気がしたからだ。見間違えかと思ったけれど、二度見しても間違いなかった。今は東京で暮らしている幼馴染みと違って、山口は裸眼でもそこそこ視力がある。
「……影山!?」
 人気のない駅のロータリーの、寂れたバス乗り場に、影山飛雄が突っ立っていた。山口はぎょっとし、慌てて車を降りる。
「影山!」
 ぼーっと突っ立っていた影山は呼ばれて、おもむろに山口の方を向くと目を瞠った。驚いたのはこちらだというのに。
「山口、」
「帰ってたんだ!」
「おう」
 今や全日本代表として活躍する著名アスリートである影山は、すこしだけ表情を和らげた。
 見慣れていなければ、ただの仏頂面に見えるかもしれない。山口は影山の身なりを見やって首を傾げる。
「帰省?」
 影山の肩には、おおきなスポーツバッグ。黒のスラックスに黒のシャツ、黒のジャケットという出で立ちは、影山自身のオーラと相まってすこし威圧感がある。
 けれど質問を受けた影山は、威勢をなくして口ごもった。
「……んぬ……」
「家、帰るんだよね? 迎えは?」
 影山の家は、山口や月島の実家がある地区から比較的近い。けれど田舎町の常で、いずれも家から駅までは離れており、徒歩で帰ろうという者はあまりいなかった。
 駅に用事のある者は、家族や知人に送り迎えを頼むというのが普通だ。
「ねえ、っつうか……今日、家族いねーらしい。俺は家の鍵持ってねえし」
「それで、立ち尽くしてたんだ」
 事前に帰るという連絡をしていなかったんだろうか──してなかったんだろうな。影山だし。なんだか懐かしさを覚えてしまって、呆れというよりもほほえましいような気もちになる。
「ツッキー……は、いっしょじゃないんだね」
 二〇半ばを過ぎても未だに同居をつづけているらしい人物の名前を出すと、それまでの淡々とした表情から一転、明らかに苛立たしげな表情が浮かんだ。
「……しらねー」
 短く吐き捨てられたことばには、不機嫌そうな音色が籠もっている。
 ──あ、これは……。
 山口は口元を押さえる。訊いちゃいけないやつだったかもしれない。影山は鉄面皮というか、そもそも感情の起伏が激しいほうではなかったけれど、チームメイトとして過ごした三年間の間に、表情の機微からわずかばかりでも気もちを察せられるようになったと思う。
 近寄りがたい表情のなかにかすかに混じったよろこびとか、さみしさみたいなものも。山口は反対に、努めて明るい声を出した。
「じゃあさ、俺んち来る?」
「──いいのか?」
「もちろん! ここにいつまでも突っ立ってるとか、風邪引くだろ」
 目を丸くする影山を「ほら、乗った乗った!」と車の後部座席に押しこむ。他人の家の車に乗せられた影山は、どこか身の置き場がないような、借りてきた猫のような顔をしていた。
 車を発車させる前に、山口はふと思い立ち、スマホを取りだす。LINEの連絡先からおなじみの名前を引っ張りだし、メッセージを作成する。
 送信しようかどうか、一瞬だけ迷ったけれど、結局送信した。建前上、彼らは未だに単なる「元チームメイト」ということになっていたから。
 ──影山、拾ったけど。
 すると、即座に返信が来た。「月島蛍」から。
 ──どこで。
 ──駅前のロータリーだよ。鍵なくて、家帰れないみたい。
 ──お前んとこで保護しといて。僕もじきそっち着くから。
 べつべつの新幹線だったのか。喧嘩をして、影山が怒って先に帰ってきたというところだろうか。
 事態が呑みこめないながらも、月島には「了解」と送信し、「おまたせ」と車のハンドルに手をかける。窓の外を見やっていた影山はおう、と生返事をした。
 何があったのだと追求したい気もちは山々だったけれど、黙ってアクセルを踏みこむ。車を滑り出させてしばらく、車の静かなエンジン音ばかりが響いた。
「お前は、今こっちいんのか」
 ややあって、影山がおもむろに口を開く。
「俺も、帰省だよ。普段は仙台にいる」
「そうか」
 それでも、年に一度程度しか帰る機会のない影山に比べれば、実家にもずいぶんと頻繁に顔を出していると思う。
「変わらないだろ、いつ帰ってきても」
「ああ……変わんねえな」
 窓の外を流れていく故郷の景色に、影山が目を細める。ふと、青みがかった目が前を向いて、運転席の方を見やった。
「お前、車とか運転できんだな」
 感心したように言うので、山口はすこし笑う。
「仕事で車使うから、就職前に急いで取ったんだよ。仙台でもやっぱ、車ないと不便だし」
 その頃には、影山も月島ももう東京に出て、ふたりで暮らしていたはずだ。影山は分かっているのかいないのか、ふうん、と呟く。
「なんか変な気する」
「なにがだよ。俺が運転してるから?」
「んー」
 元チームメイトが、見慣れないことをしていると不自然ということだろうか。運転なんて、誰だってするだろうに。
 けど確かに不思議なもので、こうしてふたりで話す機会は高校の時にさえそうそうなかった気がする。
 部活では多くの場合他の部員が周りにいたし、それ以上に、同期の五人は大半の時間をいっしょに過ごしていた。社会に出て、働くようになった今では考えられないほどに。
「ツッキーだって、免許持ってるじゃん」
「そうだけどよ。あいつが運転するとこなんて、見たことないし」
「まあ、東京じゃ車なくても生活できるか」
 こっちじゃ車必須だよ、バスなんて一時間に一本あればいいほうだし。だろうな、と他愛もない会話をして、気づいた時には実家に到着していた。
 上がるよう促すけれど、影山は玄関で足を留めて、物珍しげに山口の家を眺める。そういえば、影山を自分の家に呼ぶのもはじめてかもしれない。
「なんだよ。影山んちと大して変わんないだろ」
「いや……俺の家より、古い」
「おい、」
 確かに、玄関戸は引き戸だし上がり框は高いし基本障子襖だけれど。思わず、元チームメイトの背中をど突いた。
 山口のツッコミを理解していないようすの、頭の上に疑問符が見えるような、きょとんとした顔を見てまた笑う。
 今は世界を相手に戦うようになったといっても、こうして近くにいるとさして変わったようには思えない。
 テレビ画面越しに見るときは、どこか遠い存在になってしまったような気もちも覚えるのだけれど。影山を居間に通して、すぐさまストーブに灯を点ける。
 黒ずくめの影山が自分の家のこたつに入っているところを見ると、やはり不思議な気もちになった。お茶とあわせてお茶請けの餅を出すと、食糧を目にして影山の腹がぐう、と鳴る。
「飯、食ってなかった?」
「いや、新幹線で弁当食った」
「相変わらずだね、食欲」
 餅は近所からのもらいもので、文字通り売るほどある。
「いくらでも食べてよ」と言うと影山はすなおに頷いて、出されたずんだ餅とくるみ餅もぐもぐと頬張った。
 高校の頃と変わらない食べっぷりが気もちいい。
 影山が腹を満たす間に互いの近況をぽつりぽつりと話しながら──主に山口が影山の話を訊くというかたちだったが──山口は、スマホをちらちらと伺った。
 月島からのLINEによれば、影山より一時間後の新幹線に乗ったという話だ。とすると、まもなく到着する頃あいだろうか。
 ──駅まで迎えに行こうか?と問うと、
 ──いいよ、タクシー拾う。という返信。
 それから三〇分ほどが経ち、満ちた腹とこたつのあたたかさとで影山が眠たげな目を見せはじめた頃、家の表側に車が停まる音がした。次いで、ガラガラ、と引き戸を開ける音。
「お邪魔します」
 声が響いた時、影山の顔が強ばった。来たのかよ、というこころの声が聞こえるような、苦々しい顔を見ると、すこしの罪悪感が沸いた。
「……ごめん。知らせないほうがよかった?」
「いや、べつに……放っといても、いずれバレんだろ」
 影山は唇を尖らせて言う。
 ──ツッキーが追ってくるってことは、疑わないんだな……。
 と、コメントに窮したまま玄関に出ると、小学校来の幼馴染みのすがたがあった。その肩に雪がかかっていて、あ、と山口は声をあげる。
「久しぶり、ツッキー。降ってきたんだ」
「ああ、僕がこっち着くの、狙ったみたいに」
 月島は言って、コートから雪を払う。山口はその手から、重たいコートを受け取った。
「新幹線、混んでなかった?」
 年末のこの時期、地方に向かう新幹線の指定席券は軒並み完売だ。
 月島は苛立たしげな顔で、荷物を板間に上げた。
「二時間立ちっぱなしとか、二度とご免だよ」
 吐き捨てて、靴を脱ぎ、板間に上がる。
 よく見れば月島はグレーのスーツを着ていて、あたかも仕事上がりにそのまま駆けつけてきました、みたいな雰囲気だ。
 タイは外していたけれど。それでも、乗る新幹線を遅らせるという選択肢はなかったのか。それよりも、と月島は居間の方を見て尋ねる。
「……|影山《あいつ》は?」
「ああ、うん、いるよ。お茶、淹れるね」
「どうぞ、お構いなく」
 言いつつ、月島は居間に入る。襖が閉まるなり、戯れとも言いあいともつかない声が聞こえた。
「いきなり帰るとか、馬鹿じゃないの? 馬鹿だよね。明日まで待てば指定席で乗れたのに」
「お前はそれで来ればよかっただろ。俺は……なんか、そういう気分だったんだよ」
「あっ、そう。まあ……いいけど」
 返す刀で斬りつけるのかと思われた月島が、一応は鞘に刃を収めたことを意外に思う。以前のふたりならば、あと五往復くらいは喧嘩腰のラリーを続けていたはずだ。
「折りあい」ということばが、一応はふたりの間に存在するようになったのか。
 過ぎた年月を感慨深く思いながら、山口はその場を離れ、台所で椅子に腰を下ろした。
 先ほど沸かしてから、ストーブの天板にかけっぱなしだったヤカンは、黙々と湯気を吐き続けている。
 ちょっと長くなるかな──と、客用ではなく自分のために茶を淹れた。居間から漏れ聞こえるかすかな話し声と、カタカタとちいさく揺れるヤカンの蓋の音と。
 月島と影山は、おそらく「そういうこと」なのだろうと山口は思っている。大学の頃は、家賃と生活費の節約だと納得もできたけれど、社会人ともなれば話は別だし──まず、単なる利害の一致なんかで、二〇代後半までいっしょにいつづけられるようなふたりではない。
 月島にも、もちろん影山にもはっきりと打ち明けられたことはないけれど。緑茶を口に含みながら──自分に打ち明けてもらえる日は来るんだろうか、と山口はぼんやり思う。
 ただ、影山はともかく、月島は分かっているんじゃないかと思える節がある。自分たちの関係が、山口にバレていることを。だって、これまでの口ぶりや態度などから、自然と分かってしまうものだし。
 いっそ、山口から訊くのもありなのかもしれないけれど、なんとなく気が退けた。こんな時日向だったら、くだらない気兼ねなんてしないのだろうか。
 手持ち無沙汰で台所の窓を見やると、雪片の影が磨り硝子にチラチラと映っていた。夕刻が近づき、すこし大降りになってきたらしい。やがて、居間からの話し声が途絶えて、山口はようよう腰を上げた。
「そろそろいいかな……」
 月島の分と、影山のおかわりの分の茶を一杯ずつ。盆に乗せて運び、居間の襖の前に立つ。けれどどうやら、まだ話は終わってなかったみたいだ。なかから声が聞こえてくる。
「だから僕は、更新しないなんて言ってないって」
「じゃあ、結局お前が言いたいことは、なんなんだよ」
 影山が忌々しげに、吐き捨てるように言う。
「つまりまだ、いっしょにいるってことか、俺と」
 月島は一瞬口を噤んでから、蚊の鳴くような声で「そのつもりだよ」と言った。影山が、舌打ちをする。
「回りくどいんだよ……お前は、いつも。口も頭も回るくせに」
「わるかったって」
 月島が謝ってから「影山」と呼ばう。そして落ちる、沈黙。それからなにが起こったのか、山口は一瞬、理解することができなかった。
 否、理解できないほうがよかったかもしれない。
「っ……なんでこっちばっか、達者なんだよ」
「君が、してほしそうな顔してるからでしょ」
「してねえよ!」
 影山が声を荒げて、山口は固まった。それって、つまり……?
 今、出て行ってもいいものか。出て行くとして、一体どんな顔をすればいいのか分からない。けど、こうしててもお茶、冷めちゃうし……。
 俺はなにも知らない、なにも聞いてない──と胸のなかで呪文のように唱えながら、意を決し、威勢よく声を張りあげた。
「ごめん、ツッキー! 遅くなっちゃって!」
 ガラリと襖を開けると、どこか、不自然なほど互いに距離を取るふたりがいた。心なしか、影山の頬に朱が上っている。気づいていないフリで、後ろ手に襖を閉める。
「換えの茶葉が見つかんなくてさ。雪、本降りになってきたみたいだね」
「ああ」
「お、おう……」
 山口が適当に振った話題に、ふたりが同時に相づちを打つ。テーブルにふたつ置いた湯飲から、仲良く湯気が上がった。
「ねぇ、ツッキー」
 山口が切りだすと、月島はどこかぎこちなく「な、なに?」と硬い面持ちで問いかえした。山口が秘密を曝いてしまうのを、恐れるみたいに。
 ──馬鹿だなぁ、ツッキー。
 こんなにスマートでかっこいいのに、影山のこととなると、たまにいつもみたいな落ち着きを忘れちゃうみたいだ。
「……ツッキーも餅、食べない? どうせ来る途中、なにも食べてないんでしょ」
「あ、あぁ……うん、いただこうかな」
「影山は? まだ要る?」
 問うと、影山がソワソワとした顔をした。坂の下商店で先輩に奢ってもらえる肉まんを待ちわびていた時みたいに。
「分かった。ふたり分持ってくるよ」
 山口は笑って、再び踵を返す。背後から「わるい、山口」と、月島の声が聞こえた。一体、なにに謝っているんだか。さっきのことなら、誰も見ていないのに。
 雪が降りはじめて、まるで外の世界から遮断されたみたいに、家のなかには沁みるような静けさだけがある。
 
 ねぇ、ツッキー。ツッキーがどう思ってるのかは分からない。けど、俺は、ツッキーから話してくれたらいいなって思ってるよ。
 いつだって応援してる、だいじな幼馴染み。いつか、伝えられたらいいと思う。今のツッキーが、今まででいちばん幸せそうに見えるよってことも。

 いつになるのかは分からないけど、きっと、その時が来たら。