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いのち短し恋せよ男子

 すっかりと日の暮れた宵。帰り道、月島は大学の講義棟をひとりで後にする。
 十二月も下旬にさしかかって、空気は凍てつくように冷たく、手袋を持ってこなかったことを後悔した。東京に出てからはじめての冬。東京の冬は、意外にも宮城に負けず劣らず寒い。ポケットに手を突っこむとクシャリという感触がして、思わず中身を取りだした。ふたつ折りに畳んで入れてあったのは、映画のペアチケットだ。
 指定の日時が刻印されたチケット二枚は、近代映画史の講義を履修しているゼミの先輩から受けとったものだった。映画を鑑賞した上で、批評を書けというレポートの課題らしい。月島はその代筆を頼まれている。先輩曰く、多忙につき見に行く時間がないのだという。今になって、断ってしまえばよかったという思いが頭を過ぎったけれど、後悔先に立たずだ。一度引き受けてしまったからには、突き返すわけにも行かない。けれどまぁ、いくらだか知らないがバイト代も出すと言っていたことだし。
 ──面倒くさいけど、背に腹は変えられない。
 と、内心毒づいて鞄のなかに仕舞い直し、再び手をポケットに突っこんで身を縮こませた。問題は、二枚ある内の片方を渡す相手がいないことくらいか。「適当に「いい人」誘ってよ」と含みありげに言われたけれど、生憎心当たりはゼロだ。
 校門のところまで歩いていくと、ふと、そこに佇んだ人影が街灯に照らしだされているのが目に留まった。思わず立ち止まる。黒髪でかたちよく整った頭。すらりとしたシルエット。見間違えようがない。
「……影山?」
「う……遅えよ」
 声をかけると影山は顔を上げて、ぶすっとした表情を月島に向けた。ずっとここにいて冷えたのか、犬みたいに体をぶるっと震わせる。
「え、待ってたわけ?」
「おう。ポルトガル語、分かんねぇから教えろ」
 言い、彼は鞄の中から第二外国語のテキストをずいっと月島に突きつけた。それを見て、月島は思わず脱力しそうになる。
 影山飛雄。通称「コート上の王様」。月島の元チームメイトで、高校の三年間をともにバレーボール部として過ごした。高校を卒業してから、影山の進学先が自分と同じだと知った時、月島はもちろん驚いた。日向、山口、谷地の三人はそれぞれ違う進路を進んだというのに、同じ進学先となったのが、よりにもよっていちばんの不仲である自分たちとは。
 同大学・同キャンパスとはいえ、互いの生活パターンはまるで違う。高校でバレーを辞めた月島は部活には入らず、月並みな大学生活。一方影山はスポーツ特待生として、インカレで、全日本で華々しい活躍を繰り広げている。ただし、いくら特待生といえど、「学生」の名を背負っているからには勉学の方面をまるっきり放棄するわけにもいかず、自分ひとりで切り抜けられる望みは薄いと影山自身も悟ったのだろう。春学期の後半くらいからだ。こうして、同じ大学である月島のところにやって来て教えを乞うようになったのは。
 月島自身、受かった大学がバレーの強豪校であることは知っていたので、影山と同じ大学だったことに驚きはあったけれど、納得も容易かった。けれど、将来を嘱望される若きバレーボールプレイヤーである影山は、なぜだかこうして時折勉強を教えろとやって来るというのはさすがに予想の範疇を大きく上回っていた。
「いちおう聞くけど……うち、来るつもり?」
「まずいかよ」
「いや、まずいっていうかさ。他人の家来るのによくそんな「当然」みたいな顔できるよね」
 お決まりの嫌みを投げつけると、影山は一瞬「ムッ」とした表情になったけれど、鞄のなかにテキストを仕舞い、代わりになにかを取りだした。次には一体なにが起こるのかと、思わず身構える。
「え、……なに」
「親が、お前に。いつも世話になってるから、持ってけって」
 どうやら手土産のようだ。それも、影山の実家から。影山が度々月島の家へ押しかけていると、影山の親には筒抜けなのか。一体、どんな誤解を伴って伝わっているのかは分からない。
 月島は軽く頭痛を覚えながら白い息を吐きだし、「まぁいいけど」と折れた。すこし尖らせた元チームメイトの薄い唇は、寒さのせいかいつもより色が薄いように見える。そんな品物を用意されなくとも、月島が影山を追いかえすことなんてないと、最初から決まっている。
「来なよ、とりあえず。馬鹿は風邪引かないって言うけど、万が一があったら僕だって困る」
「あ……!? 馬鹿は余計だ!」
「事実じゃない」
 口元をニヤリと歪めながら言うと、影山は目を三角にして怒り、けれど歩きだす月島の後をおとなしくついてきた。
「っていうか、連絡ひとつ寄こさないで外で突っ立って待ってるとか、ほんと君って……。文明の利器ってものを知らないの?」
「るせぇな。お前、すぐ来ると思ったんだよ」
 確かに、今日は例外的にゼミの時間が延びただけで、いつもは大体同じ時間に終わるのが常だ。影山が自分のスケジュールを把握しているという、なんとも居心地の悪い事実には背を向けて歩を速める。
 月島が借りているワンルームのアパートは、大学から自転車で五分ほどの距離にある。上京する際、大学からの距離と家賃で即決した。人気のないアパートの外階段を上がり、自室の鍵を開けると、影山は勝手知ったる他人の家よろしく、なにも言わずに入ってくる。
 ひとりで暮らすには狭いというほどでもないワンルームに、影山がひとり増えるだけで大分手狭に感じる。こんなことなら、大学から多少遠のいてもいいから、あと一畳分だけでも広い部屋にすればよかった──なんていう考えが頭を過ぎる。
「夕飯の支度するから、君は予習してて。サボんないでよ」
「……わかった」
 渋い顔の影山を早速勉強に取りかからせ、自分は夕飯の支度をする。影山を家に上げる時は、大抵夕食も振るまってやっている。最初は食事時前に帰っていた気がするが、いつの間にかふたり分いっしょに作り、いっしょに食べるのが習慣化してしまった。図々しいというのか鈍感なのか、目の前に食べものを出せば黙って食べはじめるのが影山だ。振るまうのが月島ではなく別の誰かだったとして、毒を盛られていても影山はきっと気づかないに違いない。
 影山の実家から届いた土産の中身を遠慮なく確かめると、米と数種類の野菜、スポーツドリンクなどが詰めあわされていた。こうして食材のお裾分けもしてもらえることだし、ふたり分作った方がいっそ効率がいいんだ──と自分を納得させ、炊飯釜に米を入れて研いでいると、
「ここんとこ糖質制限してるから、米はそんな要らねえ。むね肉とかがいい」
 リビングで形だけはテーブルに向かっている影山が、顔を上げないまま言った。他人の家に図々しくも上がりながら、食事の注文までつけるとは。
「君さ……僕のこと、なんだと思ってるわけ?」
「? クソメガネ野郎?」
「ねぇ。今すぐ出てってくれない?」
 薄い唇から零れた裏表のない声に、軽く顔をしかめて悪態を吐く。高校時代の焼き直しみたいな軽口の押収をしながら、影山のリクエスト通り鶏むね肉のバターソテー──たまたま買い貯めした肉が残っていただけだ──を手早く作り、食卓に出した。
 テーブルの上にふたり分の主菜と副菜を並べ終わると、同時に影山の腹がぐぅ、と鳴る。
「腹、減った」
「どうぞ。食べれば」
「おう! いただきます」
 言うが早いか、影山は手を合わせると湯気の立つ肉片に手を付け、白米を掻きこんだ。月島が席につく目の前で、つややかな白米とチキンソテーを頬張ると至極うまそうに咀嚼する。彼女もいなければ家に呼ぶような友だちもまだいない自分が、食卓を囲んでいる。何の因果か、あの影山飛雄と。
「君、部の人たちとはいつも夕飯食べるんでしょ?」
「寮だからな。けど、まだチームのヤツらは、ちゃんと性格分かんねえっつうか……飯はよくても、まさかポルトガル語教えろとは言えねえよ」
 影山は食べ物を嚥下すると、彼にしては覇気に欠ける声音で言った。今のチームメンバーに教示を乞うよりは、月島のほうがまだマシということか。
 影山は他のチームメイトの半数ほどとともに、寮生活をしている。入学から半年の間寝食を共にしていれば、なにをせずとも自然と打ち解けるものだろうに、影山としては、それでもまだ世話を焼かれるまでには至らないということか。
「チームの人には言えなくても……僕なら、いいの?」
「いいだろ、別に。てめぇには遠慮とか、要らねえし」
「あぁ、そう」
 予想外のひと言をなんでもないように言って、影山は食事の続きに取りかかる。片や月島は、すくなからず動揺していた。
 気難かしくて他人との交流を厭いそうな影山が、意外にもこうして他人を頼る性質なのだということは、大学に入ってから知った。思えば高校の時分からその片鱗はあったけれど、勉強に関しては日向に引っ張られてのことで、自分から他人を頼るタイプには見えなかった。おそらく、今のチームメイトからも影山は同じように見えているんじゃないだろうか。「孤高」とか、そういったことばが似合うタイプに。
 数いる現チームメイトを押しのけて、自分だけが「頼られる」立場にいる。そう思うと優越感のような、腹立たしさのような、言語未満の感情が熱となって体の底から沸きあがってくる。そうこなくては、軽々しく横取りされてはたまらない。仮にも高校の間の三年間、ずっと近くで見てきたのだ。この、才能溢れる存在のことを。
「王様」
「んぁ?」
 黙々と皿の上のものを平らげる影山を他所に、月島は席を立ちあがり、鞄のなかから紙切れ二枚を取って戻った。もらい手の決まっていなかった二枚のうち一枚を、影山に差しだす。
「今週日曜の夜なんだけど、付きあってくれない?」
「日曜?」
 影山は片手に箸を握ったまま、もう片方の手で月島の手にしたチケットを受け取った。訝しげな顔でチケットを見据え、「映画?」と呟く。正解。
「他に誘う人いないし、君でもいないよりまぁマシかなって」
「なんだそれ。もうすこしまともな誘いかたあんだろ」
 影山が口をへの字にして言う。影山の言うことは尤もだったけれど、それ以上ストレートになんて誘えない。元チームメイトとはいえ、間違ってもそれ以上の関係なんかじゃない。影山とは、元々友だちでもなかったのだから。
「べつに、君が行きたくなきゃ──」
「分かった。行く」
 月島のことばを遮って、影山が言った。
「え?」
「んだよ。お前が来いっつったんだろ」
「いや、言ったけどさ」
 思わず呆けると、影山が不満げに唇を尖らせる。いつも飯食わしてもらってるしな、と言う影山には、きっと他意なんてない。けれど、月島にしてみれば大いに大変なことだった。自分から言いだしたくせに、信じられなかった。ひとかたならぬ想いを抱える影山飛雄とともに、映画に行くことになるなんて。