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結実

 その日は珍しく、影山よりも月島の方が帰宅していた。
 シャワーを浴びて夕飯を済ませ、そのまま影山が帰るのを待とうかとも思ったけれど、十時を回ったあたりで睡魔が先に襲ってきた。仕事が一山を越えて、久しぶりに夜の時間を自分のために費やせるという日に、もったいないと思いもしたけれど。体は正直だった。
 先にベッドに入ると「せめてひと言でいいから、ことばを交わしてからにすればよかった」という思いが浮かんだものの、意識は重力に従順に、眠りの淵へと滑り落ちはじめる。
 ──もう日付も変わる頃だけれど、まだ帰らないのか。
 と、おぼろげな意識でぼんやりと考えた時だ。玄関のドアが開閉する音がして、次いで荒々しい足音が続いた。足音は一直線に寝室に近づき──おそらく、月島の安眠のことなど露ほども頭に入っていないのだろう。
 バン! とドアが開いた音で、ようやく月島ははっきりと意識を取りもどした。
「か……」
 帰ったんだ、影山。おかえり。回転の遅い頭でことばを紡ごうとするも、それより先に、大股に歩みよった影山がベッドに乗り上げる。そして半ば月島の胸ぐらを掴むようにすると、だしぬけに強引な口づけをした。
「ッ……⁉︎」
 呆気に取られている間に、舌を入れられる。そして、きっと影山の思惑とはうらはらに、拙い仕草で月島の口のなかを勝手に舐めると、勝手に出て行った。
 影山はすこし興奮したようすで、浅く息をつく。乱れた息を感じ取ると、無理やりキスをされた月島よりも、いっそ影山の方が苦しそうにすら思えた。まるで、泣く寸前みたいだと。
 眼鏡がなくて、おまけに暗がりのなかで、表情はまるで分からないけれど。
「……抱けよ」
 一体なにが飛び出すのかと思いきや、影山の口から零れたことばはそれだった。
 すくなからず取り乱したようすの影山に、月島の方は逆に冷静になる。いつもの癖で眼鏡のブリッジを直そうとして、裸眼であったことを思いだした。相手に馬乗りになられたような体勢のまま、影山の手を握りかえす。
「嫌だよ。絶対嫌だ」
 きっぱりと言えば、影山は息を呑む。その体がこわばって、狼狽するのが分かる。けれど、月島の上から退くこともできず。やがて、ぱたり、と濡れたものが月島の首筋に当たった。
「……なんで、だよ……」
 一滴、二滴、涙を零す影山の頭をゆっくりと撫でて、胸元に招き入れる。その体に布団をかけ、そっと抱きこむと静かに嗚咽を零しはじめた。
 決して派手なものじゃない。いつもの呼吸に、かすかに震えが混じる程度。細かに起伏する背を撫でながら、じんわりと胸元を濡らす温度に、月島は目を閉じた。影山の体のなかを流れるのと、同じだけのぬくもり。
「あのさ。涙が元は血と同じものでできてるって、知ってた?」
「しらねえ……」
 ちいさくしゃくり上げる合間に、影山が答える。その口ぶりがいつにも増して子どもっぽいから、つい語り聞かせるような調子になる。
「どこかで転んでしまった時、膝を擦りむいたら血が出る。けど、こころが傷ついても血は出ない。こころが血を流さない代わりに、涙が流れるんだよ」
 なんとなく思い出したことを口にする。誰かから聞いたことばの受け売りだったかもしれない。いつ、どこで聞いたのかは忘れてしまったけれど。
「ふつうに怪我をしても、スポーツの試合中だったりすると、直後には痛みを感じない時があるでしょ。こころも同じで、すぐに痛まないからといって平気とは限らない。特に、ショックなできごとに見舞われた時なんかはね」
 その髪を繰りかえし撫でていると、すこしずつ影山の呼吸が落ちついてくる。けれどまだ手を放すには未練があって、しなやかな手ざわりを指先に感じながら、月島は続けた。
「君のこころは今、傷ついてる。それが分からないなら、僕は君を抱かない」
 なにがあったか知らないけれど、ひとりで|自棄《やけ》になって、自傷まがいの行為に付きあわされるのなんかご免だ。そもそも他人からなにかを強要されるのなんて、自分の人生においていちばん嫌なもののひとつだし。
 影山は反論せず、ややあってから問うた。だいぶ落ちついてきたのか、すこし眠たげな口調で。
「なんでてめえは……俺じゃねえのに、分かるんだ」
「そんなの、決まってるじゃん」
 囁いて、前髪にキスを落とす。
 体とこころが一体のものとして繋がっているように、君の涙を慈しみたいという欲求と、からかってやりたいという思いがひと続きのものなのか、全く別のものなのかは分からない。けれど──。
 だんだんと、影山の呼気が規則性を帯びてくる。自らの背を抱きしめる腕から力が抜けたのを注意深く確かめてから、月島は口を開いた。いつもなら、絶対に口になんてできないのだけど。たぶん、君には届かないだろうから。
「君を、あいしてるから」

  *

 キッチンに高く差しこむ朝の光。立ちのぼる中煎り豆の香り。沸かしたての湯をコーヒードリッパーに注いでいると、背中に重みを感じた。
 ついでに腹に腕が回ってきて、軽く抱きしめられるものだから、珍しいこともあるものだと思う。しかし、密着されていては身動きが取りづらい。起こしに行く手間が省けたのはなによりだけれど。
「すごく淹れにくいんですけど……新手の嫌がらせ?」
「そうだ。ざまあみろ」
 影山はあっさり肯定して、月島の首筋に鼻面を擦りつけた。まるで、動物が人間に擦り寄るみたいに。どうも、ことばと行動が一致していない。
 なんとか二杯分のコーヒーを淹れ終わり、背後を振りかえる。すぐそばに影山の顔があって、なんの気なしにキスをした。握手をするみたいに触れるだけのキスをして、自分でも驚く。今まで、多少なりとも気構えたり、意識したりしていたような気がするけれど。それに影山も、驚かない。ごく自然だ。
「おはよう」
「ん」
 朝の挨拶を交わして、朝食を食卓に運ぶ。栄養バランスを考えて揃えた食事は、朝にしては結構なボリュームがある。月島は影山の向かいに座り、ブラックコーヒーだけを口に運んだ。程よい苦味と酸味を口のなかで味わいながら、影山が昨夜の残りの生姜焼きとキャベツを気もちよく頬張るのを、ただ見つめる。
 あまりに見入っていたからか、影山は視線に気づくと、決まり悪げな顔をした。すこし青みがちな双眸は、昨夜なにかがあったのだと推測できる程度には、赤く腫れぼったく見える。
「なんだよ」
「いや……好きだな、と思って」
 なにが、とは言わなかった。特に、何の記念日でもない。とりたてて思いを伝える場面でもなかったかもしれない。けれど不意に、言いたくなった。
 すると影山は、口に詰めこんでいたものをごくりと呑みこんでから言った。
「俺もだ」
 やはり何の前置きもなく、するりと。一瞬、耳を疑う。思わず素になると、影山が眉根を寄せた。
「なに、変な顔してんだ」
「や、……だって、」
 影山とは、高校生の時からこういう関係を続けている。けれどまさか相手から返ってくるとは、今日まで思いもしなかった。そんなにはっきりとした、自覚的なことばが。
 せめてきれいな花が見られればいいと、毎日すこしずつ水をやっていた。そうしたら、思わぬ実が落ちてきたような。万有引力は、雲の上を目指す朴念仁のようなこの男にもきちんと働いたのか。
 ──いつから?
 と、思わず訊きたくなったけれど堪える。きょとんとした影山の顔が見ていられなくなって、席を立った。
「月島?」
 キッチンに逃げこみ、思わずしゃがみこむと、心配した影山が追いかけてくる。
「おーい、……腹でも痛えのか?」
 上から覗きこんでくる影山を、振り仰いだ。強欲かな、間近に見ると、衝動に蓋ができない。
「ねえ……もう一回、聞きたいんだけど」
「は?」
「さっきの」
 意味を測りかねていたようすの影山は、一拍遅れて理解したようすで、漫画みたいにボッと顔を赤くした。
「はっ……い、嫌だ!」
「え? どうして。いいじゃん、さっきと同じじゃない」
「おなじじゃねえ!」
 腕を掴んで退路を絶ってやると、影山はしどろもどろになる。面白くて、つい調子に乗った。
「じゃあさ……君の頼み、聞いてあげたらもう一回言う気になる?」
「何だ……頼み、って」
「ゆうべの」
 黒い髪を掻きあげて、通じるか通じないかぎりぎりのところを狙う。やわらかな耳朶をもったいぶって指先で弄ると、無事通じたようすで、影山はいよいよ羞恥の情を見せた。けれどどうやら、月島を跳ね除けるだけの威勢はないようだ。
「なん……っ、てめ、クソッ……てめえの、いい時ばっか──‼︎」
「そんなことないでしょ」
 月島は笑って、影山の体を抱き寄せる。ちょっと浮かれるくらい、許してほしい。だって、これはちょっとした大成果だ。