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比翼の鳥

 地平線に夕陽が沈む。見わたす限りがオレンジ色に染まっていく。日向は、屋上の手すりから身を乗りだすようにして眼下の街なみを見下ろしていた。
 気づけばもう見なれた東京の風景に、どこか故郷と似たところがありはしないかと探している。
「あ、カラス」
 ビルの合間を縫うように飛んでいく黒い鳥が目についた。
「烏野」という名前を背負っていた頃がとても、懐かしく思える。
 今まで後ろを振りかえることも少なかったからだろうか、こんな風にして郷愁を感じることもなかった。
 ただひたすらにまい進してきた。だから後悔はない、と思う。日向はもたれかかっていた柵から身体を離す。
 この病院の屋上にはたまに来ているけれど、冬に近づきつつある近ごろは風が冷たい。右脚に体重をかけまいとして、バランスを崩しかける。もう、コートに立つことのない足。これ以上跳躍をすることもない足だ。
 体が思うように動かずまごついていると、階段からの出口に人影が見えた。
 ──後悔はない、と思う。
 なのにそいつの顔を見たら、喉を熱いものがこみあげてくる。
 ──でも、心のこりならあるんだ。
 風がそいつの、影山の短い黒髪を撫でる。
「記者会見、終わったのか!」
 笑って訊いたけれど、影山は一ミリも笑ってなかった。影山は、すべての感情をソコに詰めこみました、みたいな顔をしてた。
 日向の感性が正しければ、胸が張りさけそう、ってやつで多分合ってる。今朝、日向が報道機関(プレス)に電話で伝えたことを聞きつけたのだな、と分かった。
「日向!」
 よく見れば影山は「JAPAN」の文字が入ったウェアーを羽織ってる。ほんとうにそのまますっ飛んできたのか、と驚いたし、目立つだろうがって呆れもする。両方ひっくるめてちょっと笑った。
 24歳の誕生日を前にして日本代表入りした影山は、バレーボール界に現れた新星として一般向けのメディアにも顔を出すようになっていた。来月、イタリアで開催される世界選手権にも出場する。
 ほんとうは、今日日本代表の記者会見が行われることも、それが生中継されていたことも、そこに影山が列席したこともよく知ってた。
 でも、テレビの画面に目を向けることはどうしても、できなかった。
「日向、お前……!」
 さっきより凶暴にそう呼んだ影山は歩み寄って、日向の腕を掴む。とてつもなく苦しげな顔をして。高校を出るころには180なかばになっていた身長を見あげる。
 190には届かなかったって悔しがる台詞を、耳にタコができるほど聞いた。
「ほんと、なのかよ」
「ほんとうだ」
 絞り出した声に答えて、頷く。
「俺、お前と同じ舞台には、立てなかった」
 はっきり言うと影山はなぜだか裏切られたような顔をしたけれど、震える手を放しはしなかった。
「なんでだよ……あと、一歩だったじゃねーか!!」
 真っ直線な影山のことばに胸のなかを鷲掴みにされる。
 そんなこと分かりきっているほどに、分かっていた。誰よりも──影山よりも、自分自身がいちばん。
 世界選手権に出場する日本代表の中には、日向翔陽の名前も含まれていた。影山と並んで期待を寄せられる中での故障。右膝の半月板損傷は、選手としての生き死にに直結していた。
 体格に恵まれないなかで、トップアスリートたちと対等に渡りあってきた日向の肉体には当然、ひと一倍の負担がかかっていて、故障も初めてではなかった。致命的だった。
 数年の活躍、数度の国際大会。選手生命は、長かったとは言えない。
「よく保った方だったって、先生に言われた。ほんとうだったらあと1年早く、使いものにならなくなってたって。残念だけどさ、」
 しょうがねえじゃん、と言おうとして、日向は口をつぐんだ。目のまえの影山の顔を見たら言えなくなった。
「ふざけんな……!」
 無愛想な──無愛想なはずの顔を大粒の涙が滑り落ちる。
「かげや……、」
「……チクショウ!!」
 ぼろぼろと溢れて、零れ落ちる。
 高校生の頃、日向にとって初めてのインターハイ予選で敗れてから、久しく影山の涙を見ていなかった。不意を突かれて、目の奥が熱くなる。
 口も日本語も下手な影山よりもよほど、コミュニケーションがうまいと自負していたのに、舌がヒリついてなにも言えない。
「お前、悔しくねぇのかよ」
「お……おれは」
「10年後でも、20年後でもっつったの……嘘だったのかよ!」
 泣きながら影山が怒鳴る。瞬時に甦ってくる。
 ずっと前にした約束。一瞬でも忘れたことなんてない。ましてや、反故にしたいと思ったことも。
 影山と同じ舞台に立つことだけを夢見てきた。けれど日向は影山を置いていく。ひとりコートの中に残して。感情の塊をぶつけられると、我慢が効かなかった。
「悔しくないわけ、ないだろ!!」
「じゃあなんで、平気みてぇな顔してやがんだよ!!」
 胸ぐらを掴むと掴みかえされて、鼻がツンとした。
「……てない」
「あ!?」
「約束、破ってねえ!」
 影山をまっすぐに見あげると、影山もまた日向を見かえす。夕陽に照らされて、影山の濡れた頬はオレンジ色に染まってた。
「俺の翼ぜんぶ、お前にやったから! 約束、破ってねえ!!」
 少し上にある肩を掴むと、影山が驚いた顔を見せた。
 ストイックを絵に描いたような身体から繰り出されるトスを、数数えられないほど打ってきた。
 影山の才能が、努力が讃えられるたび、まるで自分のことのように体の芯が震える。眩しくて、誇らしい──日向のぜんぶだ。
「お前はこれからも、生き残って、世界行って、そんで、勝ち続けるんだろ!」
「おう……」
「勝って、勝ち続けて、てっぺん取って……お前がコートに立ちづける限り、俺もそこにいるんだ」
 ──だって俺も影山も、一人じゃ飛べない。
 ──互いが互いの片割れだから、俺もまだそこで生きてる。
「お前の世界で、生きてる」
 無理して笑顔を作った拍子に涙がこぼれた。
「なんか、ちげーの?」
「……ちがわねぇ」
 影山は答えて、拗ねたように目を伏せる。日向が格好だけでもとり繕おうとしているのに、日向の「心のこり」は一向に、荒れた胸のうちを隠そうともしない。
「影山」
 日向は乾くことのない影山の頬を手のひらで包んで、唇で拭う。嗚咽が漏れる。一度決壊してしまうと、抑えが利かない。
 体が、わななく。今にも声をあげそうだった。
「っ……げやま、」
 もう一度だけでいいからお前のトスを呼びたい、と叫び出しそうで、影山の服を握りしめる。
 返事の代わりにキスが返ってくる。影山のトスに似て乱暴で、不器用な優しさに溢れていた。
 
 *
 
「ぐ、わっ!?」
 どこかから落ちるような感覚で目を覚ます。ぱっちりと目を開くと白い天井が見えた。首をかしげる。
 何か胸の奥深くまで刺さるような夢を見ていた気がしたけれど、内容はてんで思いだせない。
「おー、起きたかよ」
 間延びした声が聞こえた。見ると、ベッドの傍らに影山飛雄の姿がある。
「影山?」
「ん、キオクソウシツもユータイリダツもしてねーみたいだな」
 影山はよく分からないことを言うと椅子から立ちあがって、周囲に引かれていたカーテンを取っ払った。
 起きあがると、室内に夕陽が差しているのが見える。保健室のようだ。
「なんで? なんでお前……と俺、保健室にいんの?」
「あ? 覚えてねーのか。ノヤさんと回転レシーブの練習してて、頭打ったんだよ、どアホ」
 長い指で額を小突かれる。そう言われてみると、レシーブをした後3回床を転がってから体育館の壁に頭をぶつけたような気が、しない、でもない。
「ヘンなとこ、ねーんだろうな?」
「えっ? あ……うん、特に」
 頭を振ってみたが、違和感はない。ふと疑問に思って影山を見あげた。
「お前、ずっと待ってたのか? 俺が起きんの」
「あぁ? ……べ、べつに、部活終わったし、ようす見に来ただけだろうが」
 影山はどもりながら言う。相変わらず、感情表現がヘタクソだ。
 日向はもう慣れていて、心配だったのかも、って思うけど、一見怒っているようにしか見えない。
 言葉選びがバカっぽいとからかわれる日向に言われたくはないだろうけど。おたがいにヘタクソどうしなんだと思う。
 ──ああそうか、だから一緒にいるのか、って思った。
「なあ、ヒヨクって言葉の意味、知ってる?」
「なんだソレ?」
 影山が知っているわけないと思ったけど、案の定疑問符だらけの顔で返された。
「なんていうか……一人じゃ飛べない、って意味。俺も、今やっと分かった」
「は?」
 日向ひとりで納得して、影山は完全に置いていかれた顔のままだ。たしか国語の授業でやった。
 澤村のお達し通り寝ずに頑張った授業なのに、架空の動物だって聞いて、なんで実在もしない動物のことなんか覚えなきゃなんねーんだって思った。
 でも、架空じゃなかった。どころか、とっても現実のハナシだったみたいだ。
「俺、チビでよかったのかも、ってちょっと思った」
 生まれてはじめて思ったことを呟くと、影山は唖然とした顔になった。
「どうした……? お前、やっぱ打ちどころ悪かったんじゃねーか!」
「ちっ、ちげーよ!」
 影山が青ざめた顔で日向の頭をグシャグシャにする。なんか夢見たんだってば! と主張すれば、ますます気が狂ったかのような扱いをされる。
「っていうか、んなヤワじゃねーし! バカにすんなよ!」
 抗議をこめて抱きつくと、影山がおかしな声を出した。
「ンぎゃっ!? なっ、なにしてんだ!!」
「んっ、羽ねぇかなーって!」
 腕を回して、影山の背中を手探りしてみる。影山は硬くてピンピンしてて、体温が高い。抱きつきがいがある。
 肩の下の盛りあがった部分をさすると腕のなかの身体に震えが走った。
「みッ、妙なトコ触ってんじゃねーよ日向アホ、ボゲェ!」
 影山はうるさいけど、そうしてくっついているとやたらに安心した。そうして離すなって言われた気がした。なんだったらもっと欲しがってやれって。
 誰に言われたのかは、分からない。もしかしたら、はるか未来、見知らぬ自分にかもしれなかった。