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月島が無茶をする影山とか某全日本監督とかに振り回される話

 試合終了のホイッスルが鳴った時、全身を襲ったのは歓喜ではなく安堵の震えだった。
「やりました!![#「!!」は縦中横] 日本男子、世界バレーへの切符を見事もぎ取りました!」
 実況が歌い上げるように言う。宿敵とも言うべき対戦国相手に勝利を収めた、バレーボール日本男子代表。司令塔としてチーム日本を支え、勝利に導いたのはセッターの影山だった。それも、万全の体調とは言いがたい状態で。
 影山は今、膝に故障を支えている。世界選手権への出場権がかかった試合、なんとか調整を間に合わせたとメディアはしきりに報じたが、実際には極めて厳しい状況だった。動けはするものの痛みが引かず、もちろん欠場という選択肢もあった。しかし影山はそれを選ばず、ブロック注射を──神経機能を停止させ、痛みを軽減させる処置だ──受けて、試合へと出場した。影山を欠いては勝利は難しいというチームの思惑もあったようだが、なにより影山自身のたっての願いがあったためだ。
 欠場してほしいという思いが、ないではなかった。もしも状態を悪化させたらどうするのかと。けれど、結果として影山はフルセットの試合を戦い抜いた。それだけでもう月島にとっては大勝利も同じで、心情的には、世界選手権への出場権がついて来たのはおまけに過ぎない。
「……はぁ」
 戦い終えた選手たちがバックヤードに引き上げるのを見届けても、虚脱感は抜けない。
 ──はやく顔が見たい。
 一刻も早く影山の無事な姿を確認して、抱きしめて、おつかれとおめでとうを言いたかった。たっぷりの嫌味と恨み言を添えて。それくらいはゆるされると思った。ここまで、ヒヤヒヤさせられたのなら。
 表彰式の準備が整うまでの間、会場内では特設スクリーンで激闘のプレイバックが始まる。その時、脱力していた月島のポケットのなかのスマホが不意に振動した。見ると、ショートメッセージが届いていた。送り主には「千鹿谷栄吉」の文字。つい先ほどまで影山とともに日の丸を背負っていた人物だ。
 とっさに脳裏に閃いた嫌な予感を、振りきるようにメッセージを開いた。瞬間、
 ──影山が倒れた。
 息が止まる。と同時に、軽く気が遠のいた。どこかで、こうなると分かっていたような。最悪の「予想通り」だ。けれど続く文章に励まされて、ようやく正気を保つ。
 ──バックヤード来て。F扉から医務室までが近いと思う。
 一瞬、躊躇が脳裏を過ぎったけれど、行かずにはいられない。取るものもとりあえず、言われた通りに医務室まで駆けつけると、千鹿谷が出迎えてくれた。試合直後で疲労が浮かぶ顔つきに、けれどいつものお人好しの表情は崩れていない。
 千鹿谷は今、実業団チーム、全日本の双方で影山とともにプレイをしている。月島もまた学生の時から顔見知りではあったが、今でもこうして顔を合わせるのは、影山のことで時折情報交換の必要性を感じるからだ。お互いに。
「月島。こっち」
「……ありがとう。助かる」
「いや、いてくれてよかったよ」
 どうぞ、と招き入れられると、カーテンの向こうに影山がいた。白いベッドの上の影山は目を瞑り、片腕を点滴管に繋がれている。
「影山、」
 思わずベッドサイドに走り寄り、体に触れた。肌がじっとりと、発火しそうに熱い。熱があるようで呼吸は浅く、首筋にはいく筋も汗が浮いている。
「バックヤード上がった瞬間、倒れてさ。ドクターは、疲労で熱が出たんだろうって。無理が祟っただけだから、安静にさせておくのがいいみたい。四十度近くあるから、目覚ましてもしばらくは朦朧としてるだろうけど」
「──そう」
 千鹿谷の説明を聞いて、ひとまず命に関わる事態ではないのたど安堵する。
「ここまで運んだあと、一回目覚ましたんだけど、表彰式出るって言うから止めるの必死だった」
「殴ってでも止めて正解だよ」
 苦々しく言うと、千鹿谷は苦笑した。ことバレーのことになった時の影山の頑固さといったら、今更言うまでもない。こうして高熱を出して倒れているのが、いい証拠だ。
 とっ散らかっていた頭のなかが幾分冷静さを取り戻して、月島は千鹿谷に尋ねる。
「……悪い。僕がいていいの?」
「いいよ。俺たちこの後表彰式だし、月島がついててくれると心強い」
 もしかしたらそれは、単なる元チームメイトに対して向けることばとしては、荷が重すぎたかもしれない。
 影山との関係性について、「元チームメイトのよしみでルームシェアをしている」と千鹿谷には伝えてあった。けれど察しのいいミドルブロッカーは、暗に気づいているのではないかと思える節がある。
 ほんとうは、自分たちが「元チームメイト」以上の領域に、片足どころか両足を突っこんでいるということを。
「そういうわけで、よろしく。ドクターも、じきに戻ってくると思う」
「分かった」
 ありがとう、ともう一度礼を述べると千鹿谷は退出していき、ひとり取り残された途端、深いため息が漏れた。
「……どこまで他人の寿命削ったら気がすむのかな、君は」
 嫌味を垂れるも、影山は眠り姫よろしく目を覚まさず、月島はただ、汗ばんだ影山の手を握りしめるしかなかった。

  *

 影山はその後もこんこんと眠りつづけ、表彰式が終わり、大会の撤収作業が始まるなか、自宅まで送り届けられることとなった。影山を乗せたタクシーを飛ばして、会場となっていた千駄ヶ谷から自宅に向かう。タクシーには、月島とチームコーチが同乗した。
 試合が行われたのが日本の、それも東京都心でよかったと、心の底から幸運に感謝せざるをえない。これがイタリアやブラジルででもあった日には、どうなっていたことか。
「悪いな。いてくれて助かったよ」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
 チームコーチがそう言って、気さくな笑みを浮かべた。自宅に他人を、それも影山のチームの人間を入れることには気が進まなかったが、やってみると実際、意識のない現役スポーツマンをマンションの自室までひとりで担ぎあげるのは、不可能だと思い知った。病人を寝室のベッドまで担いでいき、無事寝かせると、月島もチームコーチも息は切れ切れだ。
 思わず「お茶でも」と勧めずにはいられず、相手もまた遠慮なしに冷たい緑茶を受け取った。
「君は、元チームメイトなんだっけ?」
「はい。高校の……」
「仲、いいんだな」
 立ち話程度にコーチが切りだした話題に、月島はふと、ヒヤリとした気分を味わう。もしかして、勘づかれたのではないかと。けれど月島の心配をよそに、元全日本選手のチームコーチはカラリとした調子で続けた。
「俺なんて、高校の仲間とはもうあんま連絡取ってないよ。そこそこの強豪校ではあったけどさ。やっぱ、全日本に呼ばれてからはすくなからず世界が違っちゃうっていうか、どっちに軸を置くか、選ばざるを得ないから。特に影山が入るまでの烏野って、全国はご無沙汰だっただろ」
「ええ……まぁ」
「だからさ、キャリアとか関係なしにずっと続く関係って貴重だし、うらやましいって思う」
 気もちいい飲みっぷりでコップの中身を干したコーチは、裏のない口調でそう言った。
「ごちそうさま。これからもよろしくな、影山のこと」
 月島の肩を軽く叩いたコーチに、月島はあと一歩で、
 ──どういう意味で?
 と問いかえすところだった。けれど口に出すことは叶わず、なにかあったらすぐ電話して、と、一方的にコーチ本人とチームドクターの番号を押しつけられる。こちらだけ知っているのも、ということで、万が一の連絡先として月島自身の番号も渡した。謎めいたことばを残して去っていった客人を見送ると、月島はしんと静まりかえった家にひとり、取り残された。
 手のひらのなかに残された困惑の種に、けれど結局、月島は感謝することになった。死んだように眠りつづける影山が、翌日の夕方になっても目を覚まさなかったからだ。糸車の針に指でも刺したのかと疑うほど、じっと目を閉じたままの影山に不安は募り、思わずチームドクターの番号をダイヤルした。
 すると、小柄な女性のチームドクター──勝手に男だと思っていたので、はじめ顔を合わせた時驚いた──は数時間程度で自宅に駆けつけてくれた。彼女の見立てでは、ただ眠りつづけているだけらしく、そっとしておくしかないという。「ちょっとずつ回復してるはずだから、安心して」と、いかにも利発そうな顔に笑みを浮かべて言った。ドクターのことばを信じ、影山は夢の世界に行ったきり、更にひと晩夜を越した。
 試合から数えて、二日後の朝だ。朝風呂から上がり、トーストを齧っている月島の目の前で、寝室のドアが開いたのは。
「……影山?」
 思わず、バターをたっぷりと塗ったトーストを取り落とす。明るい朝の陽が差しこむリビングに、まだぼうっとしたようすの影山がすがたを現す。思わず、席を立った。
「……大丈夫? 熱は、」
「なあ、月島……試合は?」
 月島が言い終わらぬ内、影山が問うてきて、思わず相手の双眸を見かえしてしまう。名状しがたい感情のかたまりが、あと一歩のところで溢れそうになる。よろこびにしては、熱すぎる。怒りにしては、やけにやわらかな。
 飛びだしそうになったことばをどれもこれも呑みこんで、月島はようやく口を開いた。
「君のチームは……勝ったよ」
「……そうか」
 そうか、ともう一度呟いて、影山は表情をやわらげた。試合翌日から、テレビのスポーツ番組はバレー日本男子代表が数年ぶりの世界バレー出場を決めたと言う話題で持ちきりで、スポーツ紙の一面にも試合結果が掲載された。
 試合終盤、ほとんど本能でトスを上げていたのかもしれない。チームを見事頂の舞台まで導いた立役者だけが、今の今まで、結果を知らなかったようだ。
 は、と熱い息を落とし、影山は月島の肩に頭をうずめる。まだ体温は高いようだが、意識や顔つきははっきりしているから、熱は下がってきたのか。かすかに汗ばんだ体を抱きとめながら、月島は口を開いた。
「おめでとう……と、言いたいところなんだけどさ。僕、君に説明してもらいたいことがあるんだよ」
「なんだ?」
「……っ!」
 至近距離で見上げてくる影山の両目は、熱の余韻かまだ涙の膜が見えて、咄嗟にことばに詰まる。言わなければ、という決心が思わず揺らいだ。
 どうしてこんなことになったのか、影山の口から言わせなければ気が済まないと、月島はこころに決めていた──そのはずだ。
 ひとまず影山をソファに座らせ、ミネラルウォーターの入ったグラスを運ぶ。
「っていうか、下、なんで履いてないの」
「暑いんだよ。っつうか、履いてなくねえ」
 寝室から出てきた時に気づいてはいたけれど、影山は上は白いシャツ一枚、下は黒の下着のみという着の身着のままな格好でいる。「履いている」か「履いてない」かといえば、後者に近いと思う。寝ている間、月島が汗だくになりながら着替えさせた寝間着を着ていたはずだが、どこかで脱皮して来たのか。
「また熱上がっても知らないよ」
「もう下がった」
「下がってないでしょ。なんで嘘吐くの」
 子どものように見えすいた強がりを言う影山に、ため息を吐いて、月島はいよいよ伝家の宝刀を持ち出すことにした。
「あんな無茶な真似、今回は君のわがままを通したけど、次はないと思って」
「あ?」
「──って、雲雀田監督からの伝言」
「……は!?[#「!?」は縦中横]」
 その名前を出した途端、影山は目に見えて血相を変えた。
「どういうことだ!?[#「!?」は縦中横]」
「それはこっちの台詞だよ!」
 男子バレー全日本チーム監督、雲雀田吹から電話があったのは、チームドクターが帰ったすこし後のことだ。それも影山にではなく、月島に直接かかって来た。
 スマホの着信音とともに見慣れない番号がディスプレイされていて、訝しみながら出ると、低い男の声がした。
「月島くんかな? 影山の元チームメイトの」
「え、あの、そうですけど……失礼ですが」
 どちらさまですか、と問いながら、声だけならまるでオペラ歌手のようなテノールを、どこかで聞いたことがあると思った矢先だ。
「全日本チームで監督をしています、雲雀田と言います」
「え……?」
 あまりにフラットな調子の自己紹介に、一瞬が頭が追いつかなかった。
「影山のようすはどうだろう?」
「えっ、あ……今まだ、寝てます、けど」
「そうか。まあ、寝てるだけなら安心だろう。影山のことだ、起きたらすぐに練習に出て来たがるだろうが、そうなっても阻止してほしい。三日間は休ませたいからな。できるだけ、部屋から出さないでもらえるとありがたい」
 呆気にとられている月島を他所に、雲雀田は一方的に話を進めていく。こちらにノーを言わせない重みのあることばは、けれど不思議と威圧感を感じさせない、飄々とした響きがあった。
「あの……雲雀田監督、なんですか?」
「ん? そうだよ?」
「今回の出場は、監督の指示ではないと聞いてますけど」
 思わず確かめずにはいられなくなって尋ねると、雲雀田は一瞬沈黙してから、すこし声のトーンを軽くした。
「それは、影山に聞くといい。本人が起きたら、ああいう無茶は今回限りだ、と伝えておいてくれないか」
「……はい、」
「影山をよろしく。パートナーくん」
「ッ!?[#「!?」は縦中横]」
 スマホの端末ごしに聞こえた雲雀田のことばを、月島はきちんと受け止められたのか分からない。
 ──「パートナー」。
 おそらくこの文脈で、他に解釈しようのないひと言をよこして、雲雀田は通話を切った。冷や汗の吹き出す体と動転した頭で、
 ──いつ? どこから? コーチやドクターからか?
 おそらく月島の電話番号は、彼らを経由して雲雀田に伝わったのだろう。けれど秘密が割れてしまうまでの言動を、月島はした覚えがない。もし影山のほうで、なにか疑わしいことを零していたのなら別かもしれないが。
 というわけで、まずは影山のことを問いたださなければ思った次第だった。
「君、なにか言ったの?」 
「は? 別に、言ってねえ……と思う、けど」
「なんで自信ないんだよ……」
 影山のかたわらに腰掛けて、月島はうなだれた。
「っていうか、出場すること、ちゃんと話しあって決めたんじゃなかったの?」
「話しあった……つうか、頼みこんだっつうか」
「ムリ言って聞いてもらったわけね」
 ずばり言うと事実だったらしく、影山は気まずげな顔で閉口した。
「……今度、三人で食事でもって言われたよ。監督に」
「は? 誰が?」
「決まってるだろ。僕と君がだよ!」
 言うと、影山はいよいよ目を丸くした。電話を切る間際、
 ──そうだ。よかったら、今度食事でもどうかな。影山と三人で。
 考えておいてくれ、と月島の混乱を見透かすかのように、雲雀田は笑い含みに言った。
「お前と監督と飯食って、どうすんだ?」
「知らないよ! ああもうっ、これも君のせいだから」
 あの食えない監督のこと、これから一体なにが起こるのか、あまりに読めない。読めないけれど、なにか厄介なことに巻きこまれそうな気配をひしひしと感じる月島である。
 ソファに身を投げだすと、どっと疲れが体にのしかかる。影山の看病と自宅に持ち帰った仕事とで、結構な疲れが溜まっていたのだと悟る。目を閉じると、額にやんわりとした手のひらの感触があった。
「わるい。めんどう……かけたっぽい」
「「っぽい」じゃなくて、かけてるでしょ実際。っていうか、もちろん……それもあるけどさ」
 髪を撫でる手を取って、体を抱きよせる。火照りを残した体が両腕に収まると、肺のなかに凝り固まっていた不安が、ゆっくりと溶けて消えていくのが分かる。
「……心配、したんだけど」
「わ、わるい」
 ぎこちなく、影山が言う。「よろしく」と、影山が倒れてから色々な人に繰りかえし言われた。託されては行き場を失った想いたちが、未だに月島のなかで燻っている。
「もう無茶はしねえ……多分」
「ぜんぜん信用できないんですけど」
「監督にも言われちまったし……あ、」
 そういう理由? と、睨めつけると、影山は「まずい」と分かりやすく顔に書いた。
「はぁ……いいけどさ。ちゃんと埋めあわせはしてもらうし」
「うめあわせ?」
 思わせぶりに口の端を持ち上げて、むき出しの太ももに指を這わせる。意図を理解したらしい影山が「なっ」と身を捩った。
「安心してよ、さすがに病人襲うほど焼きは回ってないから」
「はっ……なら、触んじゃねえ! おい、熱上がる、」
「えっ? 下がったんじゃなかった?」
「ッこの……クソっ」
 顏を近づけて見ると、影山は身を竦めてぎゅっと目を瞑る。朱の上った頰を見るに、これ以上やると本当に体に響きそうだ。ふと笑みを浮かべて、すこし赤らんだ鼻の頭に口づけを落とす。きょとんと目を開けた影山の顔を見ると、わけもなく愉快な気分になる。影山の平和な顔を見ただけで、ついさっきまでの心労も疲労感も、すべてがどうでもよくなってしまうのだから、自分も安いものだ。
「なにしてもらうか、よくよく考えとくから、覚悟しといてよ」
「お、おう。望むところだ」
「だから、ちゃんと早く治して。チームの人とか、心配してくれた人にお礼言って」
「わかってる」
 そこまで小言を重ねると言うことが尽きて、ようやく肩の力が抜けた。
「それと……おつかれ」
 ぽつりと言う。影山は驚きを顔に浮かべた後、ふと笑んで月島の肩に腕を回してきた。ぎゅっと抱きついてきた体を抱きかえすと、ようやく僕らの戦いが終わったのだと思えた。