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決して知らない

 その日の海神島はいい夏晴れの日で、空には塊になったおおきな雲がもくもくと立っていた。
 皆城総士──海神島で育ったちいさな子どもは、そのおおきな雲を見上げて、新鮮さに目を瞬いた。この世界に生を受けてまだ三年ばかりしか経っていない彼にとっては、空に浮かぶ変わった形の雲ですら驚きに満ちていた。
 草は生い茂り、あちらこちらから虫が飛び出してくる。草むらのなか、森の方に延びた道をまっすぐに歩いていると、総士の背後から声がした。
「なぁ総士、ほんとうに一騎のところに行くのか?」
 尋ねたのは、総士よりもずっと年かさの青年だった。名を春日井甲洋と言う。
「うん!」
 といって元気よく、総士は甲洋の問いに答えた。自宅で留守番をしていたはずの総士少年が、急に家を飛び出したのは昼前だった。彼を置いて出かけた「育て親」のところに行こうというのだ。
 総士の育て親である真壁一騎は、たびたび家を空けることがあったが、いつも行き先を告げてはくれなかった。この日は午後には戻るという約束だったけれど、好奇心旺盛な総士少年は育て親が帰るまで辛抱できず、家を出た。育て親が出かけて行った先を突き止めるべく。
 一騎が戻るまで、少しの間子守を言いつけられていた甲洋は、一度言いだしたら聞かない子どもの後を「従者」よろしくついて歩きながら、深いため息を吐いた。するともうひとつ、声が上がる。
「けど、一騎がどこに行ったのかも知らないんでしょ? アテもなく向かったって、森で道に迷うのが関の山だよ」
 そう口にしたのは来主操という名の青年で、甲洋よりもずいぶんと子どもっぽく、飄々とした雰囲気をしている。操の説得も虚しく、総士は向かう方向を力強く指さした。
「しってるよ。あっち!」
「あっちって……」
 甲洋と操は顔を見合わせた。総士が指さした方向には、「木」と呼ぶのを躊躇(ためら)うほど天高く、翠(みどり)の巨樹がそびえ立っていた。
「……総士。やっぱり、家で一騎のことを待っていないか? あそこは、お前が思っているよりずっと遠いんだ」
「そうそう、歩きで行くなんて面倒だしさ。人間じゃなかったら、こんなの一瞬で──ングッ!」
 ボヤきを口にしかけた操の口は、甲洋の手にあえなく塞がれてしまう。実を言うと、皆城総士という少年を取り巻く事情はごく複雑で、甲洋と操には彼に明かすことのできない秘密が山のようにあった。
 いなくなった一騎の向かった先、彼方にそびえ立っている翠の樹、人間うんぬん──といったことは、その一部だ。
「やだっ! かずきのところ行く!」
「もう、総士は強情だなぁ……。昔も今も」
 そう言って、操は愚痴を零す。炎天下だというのに、その顔はごく涼しげだ。隣を歩く甲洋も同様。彼らの素性を知らない者が見たら、この真夏日に汗ひとつかいていないなんて、幽霊とでも思うかもしれない。
 そう、彼らは「幽霊」であったがゆえに、この日の気温がいかに高く、人体に影響を及ぼすかに意識が回らなかった。とりわけ、ちいさな子どもの体に。気が付いた時には、すでに遅かった。
 目の前を元気よく歩いていたように見えた総士が突如ひっくり返って、ふたりは仰天した。
「総士っ!?」
「えっ、なになに、どうしちゃったのさ!」
 慌てて助け起こした子どもの意識がなく、濡れ鼠のようにびっしょりと汗をかいていて、ようやく彼らは非常事態だということを理解した。そして取るものもとりあえず、「人」として装うことも忘れて、一瞬で真壁家へと総士を連れて帰ったのだった。

  *

 彼が目を醒ました時、そこは古びた家屋だった。ひどく体が熱く、のどが渇く。光の差す方を見やると、窓から吹き込む風が軒先に吊るされた風鈴をかすかに揺らしている。
「総士。起きたのか?」
 現れた黒髪の少年が、あたたかみのある声で言って、かたわらに腰を下ろす。屋内に差し込む西日が、だいだい色の少年のシャツの色と相まって、なお一層赤みを増している。
「……一騎?」
「わるい、勝手に家に上げて。お前、うちに来る途中で倒れたんだ」
「そうだったか……すまない。世話をかけた」
 彼が起き上がって寝床を抜け出そうとすると、黒髪の少年は目を丸くする。
「まだ、起きないほうがいいんじゃないか?」
「いや……、これ以上迷惑はかけられない」
 そう言うけれど、彼の全身は鉛のように重たかった。気もちだけはすぐに出ていくつもりでいるが、実際にはとても立ち上がれる気がしない。そのまま動けずにいると、少年が冷えたグラスを手渡してきた。
「ほら、とりあえず飲めよ」
「あぁ……すまない」
 彼はグラスを受け取ると、ほとんどひと息で飲みきってしまった。
「熱中症だって」と、彼が飲み干すのを見届けてから、少年が言う。「夜まで寝ていたほうがいいだろうって、電話で遠見先生が」
「そうか。今日中に、慶樹島まで届けたい案件があったんだが」
 彼が零したことばを聞いて、少年は首を傾げる。
「そんなに、大事なものなのか? 俺が届けようか?」
「あぁ、……いや、お前が心配する必要はない」
 彼からそう言われると、少年はやや残念そうな顔を見せたけれど、それ以上言いつのることはしなかった。彼と少年の間に横たわるのは、ひどく親密なようでいて、同時にひどくよそよそしいような、不可思議な雰囲気だ。
 ぼんやりした頭で思案する彼の額を、ふとひんやりとしたものが覆って飛び上がる。少年が、彼の額に手を当てたのだった。彼がびっくりしてことばを返せずにいると、少年がとっさに我に返ったようすになった。
「ご、ごめん。お前、さっきまで熱があったから」
「いや……いいんだ。お前の手が冷たいので、驚いた」
 彼は別段責めてなどいないという気もちを籠めてそう言ったけれど、少年はひどく恐縮して、すぐさま手を離してしまう。
「い、いま、氷枕作りなおしてくるな!」
「かずき、」
 立ち上がったところを不意に引き止められて、少年はピシリと振りかえり、目を目を丸くした。彼の手が、知らぬ内に少年の手を握りしめていたからだ。
「総士?」
 呼ばれ、彼ははたと我に返ったようすで、慌てて少年の手を離す。
「すまない……なんでもない」
 少年は訝しげにしていたけれど、その内「なにかあったら呼べよ」と言い残して、台所の方へと消えた。
 そうして彼は、「氷枕なんて要らないから、ずっとその手で触っていてほしい」という願いを、口にすることはできなかった。

  *

 夕風の涼しい空気のなか、皆城総士は目を醒ました。
 なんだか、ひどく懐かしい夢を見ていた気がする。けれどこの世に生を受けていくばくも経たない総士には、「懐かしい」という自分の気もちすら謎だ。どうしてそんな風に感じるのか──けれど確かに、あれが慕わしい、二度と戻らない光景だと知っていた。
 ぼんやりとした夢の中身は、意識が覚醒するほどに遠のき、薄れていく。逆に、自分がどこにいるのかははっきりしてきた。総士が育った海神島の、真壁の家だ。時刻は夜に差し掛かっているらしく、ほの暗い濡れ縁の向うから遠く潮騒が聞こえる。
 総士が目を醒ましてからすぐ、そばから人の会話が聞こえてきた。
「わるかったよ……一騎。もっと気を付けているべきだった」
「いや……俺も考えていなかったのが、わるかった。あいつが、そんなに興味をもつなんて」
 ふたつの声は、総士のよく知っている声だった。ひとりは甲洋、そしてもうひとつは。
「かずき……?」
「あはっ、起きたよ! おはよう、総士!」
 総士が呼んだ人物の代わりに、答えて顔を覗かせたのは来主操だった。総士よりもずっと年上の、けれど自分を総士の「友人」だと言ってはばからない、変わったところのある人物だった。
 すぐさま黒髪の青年──真壁一騎が、ふとんに寝ている総士のところへ歩み寄ってきて、ひどく心配げな表情を見せる。
「かずき……どうしたの?」
「総士。お前、倒れたんだ。暑さにやられて」
「ぼくはへいきだよ?」
 今起きたばかりだけれど、総士の体はどこも痛くもない──ちょっとばかり、頭がぼんやりするけれど。だから平気だと言うと、一騎がちいさく破顔した。
「そうか。総士はつよいな」
 一騎に助けられて、体を起こす。手渡されたグラスから水を口に含むと驚くほどおいしく、ごくごくと一気に飲んでしまった。それほど一度にたくさんの水を飲んだのは、はじめてだったかもしれない。
 飲み終えて落ちつくと、総士は自分が家を出て行った時のことを思い出した。
「かずき、どこ行ってたの?」
「それは……まだ、お前が知らなくてもいいことだ。お前がおおきくなったら、きちんと話す」
 一騎が言うと、総士は自分のなかの気もちが空気の抜けた風船のようにしぼんでいくのが分かった。そう言われることは、なんとなく予想がついていた。
「……つまんない」
「うん、俺もつまんない!」
 へそを曲げた総士に乗じて操が横から茶々を入れるけれど、一騎に睨まれて閉口する。
「総士、嘘は言わない。ちゃんといつか話すって、約束する」
「ほんと?」
「あぁ、ほんとだ」
 一騎に熱心に見つめて言われると、総士の曲がっていたへそはあっけなく元どおりになりはじめてしまう。
「じゃあ、いいよ」
「あぁ……ありがとう。総士」
 一騎が言って、総士の額に手を当てる。ひやっとした感触に、総士は声を上げた。
「かずきの手、つめたい」
「氷枕、作ってたんだ。持ってこようか?」
「ううん、かずきの手がいい」
 総士は育て親の手を取り、額にくっつけて笑う。すると、一騎が唐突にぎゅっと抱きしめてくるものだから、総士は息苦しさに目を瞬いた。
「かずき、だいじょうぶ?」
「あぁ……大丈夫だ。なんでもない」
 総士はまだ知らない。その時一騎の胸を襲った、不意の嵐にも似た、いとしさのことを。「俺も混じりたい!」と不満を言う操の声を拾うくらいが、せいぜいだった。
 突如現れた夢の意味も、一騎が時折総士の前からいなくなる理由も。まだこの時の総士には、てんで分からないことばかりだった。