Loading...

うぶごえ

 皆城総士は、海神島に暮らす少年だ。今年で十三になる。
「じゃあね!」
「いい夏休みを!」
 蝉しぐれも勢いを増す七月末。
 学校が終わると、中学校の生徒たちは三々五々、各々の家へ帰っていく。この島で唯一の中学校は今日で一学期目を終え、明日から夏休みが始まる。
 海神島は貧しく、ちいさな島だ。病院も、本屋も島に一件しかない。総士は海神島で生まれ育ったために当たりまえのように思っていたが、自分の暮らす島がいわゆる「田舎」だということは、小学校に入って読み始めた本やテレビ番組で知るようになった。
 海神島が貧しいのには理由がある。聞くところによると、総士が生まれたちょうど同じころに、この島でひどい戦争があったのだという。「十三年前の戦争」というのは島の大人たちからよく聞くことばだった。
 戦後の復興はほとんど更地と化した土地にふたたび街を築きあげるところから始まり、はじめは食べ物もろくに食べられなかったということを、違う大人から繰りかえし聞いた。
 正直に言えば、耳にタコができそうだ。けれどこの島に眠る歴史が大人たちが話すとおりのものなら、きっといつかは自分たち子どもが受け継ぐべきものなんだろう。
「……あつい、」
 総士の家は崖に面した小高い場所にあって、自宅にたどり着く前に、額にはすっかり汗を浮かべることとなる。足は重さを帯びて、遅々として先に進まない。
 重く、湿度の高い空気が鬱陶しく、もどかしい。
 坂道を登りながら、総士は今来た方角を振りかえる。総士の家から北に位置するそこには、おそろしく背の高い翠色の巨木がそびえ立っている。樹というにはあまりに大きく──だが大人たちはみな、それを「樹」と呼んだ──どんなに天気が良い日に見あげてもてっぺんは見えない。
 他の樹木とは明らかに異なるその樹がいったい何なのか、総士は何度か大人たちに聞こうとした。だが総士の納得のいく答えが帰ってきたことはない。そのことを幼なじみたちに打ちあけても小首を傾げられるか、「総士はヘンなこと考えるよな」と笑いとばされるかのどちらかだ。
 だが、総士は知っている。
 この島の大人たちが──この島が、何かを隠しているということを。誰に信じてもらえなかったとしても、総士のなかではその思いは、日に日に確信に変わりつつある。
 ──知りたい。
 それが、一体何なのか。理解しなければ、ずっとこの島で暮らしていくことはできないとすら、近頃は思うようになった。
 ──確かめないと。
 道とも呼べないような道を進んでいくと、平屋建ての家屋が見えてくる。「器屋真壁」の看板が下がった軒下をくぐって、ひんやりとした土間のある玄関に入る。
「ただいま」
 玄関には釉薬の使われていない素焼きの器が整然と並んでいて、器が並べられた棚の一角には古ぼけた写真が何枚か飾ってあった。
 母屋のなかから声が聞こえないので、総士は庭に回る。総士の家は器屋をしていて、昔は手捻りでやっていたということだが、今では母屋の他にろくろを備えつけた作業小屋がある。その、作業小屋のある母屋の裏手に総士は慣れた足取りで回った。
 裏庭には作業小屋と、自家栽培で野菜を育てる菜園があり、自分たちで食べる分のほとんどはそこから賄うことができた。
 菜園には色とりどりの夏野菜が熟れた実をつけており、そこで今まさ野菜を収穫していた人物は総士を発見すると腰を上げた。
「ああ、おかえり、総士」
「ただいま。一騎……さん」
 彼、真壁一騎はにこやかに総士を出迎え、茄子や蕃茄や玉蜀黍が満載になった籠を抱えあげる。
 一方総士は、どこか所在ないこころもちで頭を下げた。このところ総士は、目の前の人物との──そして自分との折り合いが、うまくつけられずにいる。
「学校、今日までだったな」
「はい」
 七月の終わりとともに中学校は一学期目を終え、八月の始まりとともに夏季休暇に入る。
 今日は大掃除と終業式──といっても、担任が夏休みの心構えを話す程度の簡素なものだ──と期末テストの返却があるだけで、学校は半日だけだった。
「テスト、見ますか?」と言うと、一騎は「いや」と首を横に振った。
「僕の成績、見なくていいんですか 」
 彼にも保護者だろうと思って言うけれど、一騎は気にした風がない。一騎は時おり、保護者というにはあまりに型破りだと思えるところを見せることがあって、育てられた総士のほうが眉をひそめることもあった。
「見なくたって、お前がいちばんいい成績なのは分かるさ」
「百点なんだろ?」と知った顔で言われて、総士は黙る。事実としては、異論のないほど一騎の言うとおりだったが、総士が期待していたのはそのことばではない。
「飯、まだだろ。そうめんでいいか?」
「一騎、」
 野菜を抱えて濡れ縁から家に上がる一騎を追って、総士は呼び止める。振り返った一騎に視線を向けられて、総士は口ごもった。
「その……サマーキャンプのことで、」
「ああ、言ってたな。クラスのやつらで行くって。決まったのか?」
 屈託なく一騎が問うて、総士はこくりと頷く。夏休み中に、おなじ学級のみんなでキャンプに行くのだ。自然のなかでテントを張り、自分たちで米を炊いて野宿をし、各々昆虫採集や天体観測や、夏休みの宿題として提出するための研究を行う。総士が発案した計画だった。
 けれどほんとうのところ、総士にはキャンプの他にもうひとつ確かめたい事柄がある。
「北山のほうに行こうって、みんなと計画してる」
 総士が言うと、「北山?」と一騎が顔を険しくした。
「北山には珍しい石があるから僕の自由研究には役立つって、鏑木先生石が──」
「駄目だ」
 たちまち一蹴され、総士は思わずことばを失う。
「……どうして」
「いつも言ってるだろ。北山には行くな」
 一騎はどうにも、昔からの決めごとを必ずしも重んじないところがあって、そのことに総士はやや、疑問を抱きもするが、基本的には話の分かる人物だと思っている。
 だがあの「樹」と、周辺の北山のことになるといつもこうだった。総士は歯噛みする。
「だったら、理由を教えてください。僕はもう、何も分からない子どもじゃない。どうして行っちゃいけないのか、教えてくれなきゃ納得できない!」
 あの「樹」がそびえ立つ方角。あの樹の下には何があるのか。あの樹は何なのか。
「理由は……今は、言えない。そのうち、きっと話す。だから、あの場所へは行くな」
「なんで……」
 普段は柔和な人物が、取りつく島もない。一騎の言うとおり、いつかは明らかになる日が来るのかもしれない。けれど、それは一体いつなのか。明日なのか、十年後なのか、それとも総士がいなくなったあとのことなのか。
 総士の胸はいま、無数の「なぜ?」に埋め尽くされて、張り裂けそうだというのに。
「……なんで、親でもないあなたに、そんなこと言われなくちゃいけないんですか」
 総士が言うと、一騎が息を呑んだのが分かった。
 総士はいけない、と思ったけれど、溢れた堤の水が止めどなく流れだすように、ひとりでに零れることばを留める術がない。
「あの、樹の下には何があるんです。大人たちは、僕らに──僕に何を隠しているんですか? 」
 総士は知っている。島の大人たちが時おり、ちいさな田舎の島には似つかわしくない、険しい顔で話をしていることを。
 大人たちが自分のことを「総士」を呼ぶ時、彼らが自分ではない「誰か」を呼んでいること。彼らは──一騎が呼ぶ「総士」とは誰なのか。考えても考えても答えが出なくて、思考はどつぼに嵌っていくばかりだった。
「僕には『皆城総士』が……僕が誰なのか、分からない……っ」
「お前は、お前だ。総士」
 籠を放って裸足のまま庭に降りて総士に歩み寄ると、一騎は総士の腕を掴んだ。一騎は総士よりも拳二個分以上背が高く、すぐそばにいると彼を見あげる体勢になる。総士のそれとは似ても似つかない黒髪に、精悍な顔つき。これまで、一騎の歳をはっきり訊いたことはなかった。
 けれど、いつもは二十過ぎ程度に見える一騎の顔が、時にそれよりずっと歳をとって見えることがあった。
 総士は自分を見おろす一騎のまなざしがなぜだか急に恐ろしくなって、後退る。
「一騎さん……あなたは、僕の、なんなんですか?」
 言った瞬間、一騎が硬直した。怯んだようにも、傷ついたようにも見えるその表情に、胸がしくりと痛む。けれど罪悪感は混乱した胸のなかをより引っかき回す材料にしかならず、総士はたまらずに、踵をかえした。
「──ごめんなさい」
「総士!」
 総士の人生のなかで、最も耳慣れた声から逃げるように走りだす。どこに行けばいいのかもわからないままに。
 ひたすら、まっすぐに坂を駆け下りた。