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蒼天白日

 箸を手に持ち、茶碗を抱え上げようとしていた操は不意に手を止めた。痛い視線を肌に感じたからだ。
「……操、」
 静かな威圧が堪えた様子で操は茶碗を置くと手を合わせる。
「……いただきます」
「いただきます」
 操の声に続き、口を挟んだ張本人である総士もまた手を合わせた。
「また注意されたのか?」
 台所に立っていた一騎が遅れて席に着く。男子三人分の食器を並べて卓袱台は皿の上に皿状態で、そこへ更に煮魚を押し込み、一騎は腰を下ろした。操はむっとした顔で白米を掻き込む。
「総士は細かいよ。六文字言ったって言わなくたって、何も変わらないじゃないか」
「口に物を入れながら喋るな」
「そーしっ!」
「ほら、零すぞ」
 思わず暴れ出した操を一騎は制した。操は尚も言い募ろうとしたが、総士に言葉で敵うはずが無いことを心得ているため、ただ口を噤むに終わる。
「食前の挨拶は、命を頂くことに感謝するという誓いのようなものだ」
「食べ物に誓ったって、返事も何も無いのに」
「屠られた命があるという事実を、忘れるなと云うことだ」
 学級委員長の模範解答にも、操は総士の説くこと、ふうん、と一応の反応を返す。一連のやり取りを見ていた一騎が苦笑した。
「挨拶も大事だけど、食事中の会話だって大事だろ?」
 総士はちらりと一騎を見やって頷く。
「確かに、一理あるな」
「そうだよ。お前、しばらく家空けるんだし」
 え、と総士を見たのは操だった。一騎は意外な顔で操を見る。
「お前、聞いてなかったのか?」
「なにそれっ、聞いてないよ!」
 操は乗り出すようにして問う。
「新国連軍の使節との会談の場に、僕も同席することになっている。その為だ」
 切って返す総士の方は冷静なものである。操はまじまじと見つめ、総士が言った言葉が嘘ではないらしいことを悟って俯いた。
「気にすることなどないだろう。たかだか一週間だ」
「一週間も!?[#「!?」は縦中横]」
 操は叫ぶように言うなり卓袱台をひっくり返さんばかりに腰を浮かせた。
「おい!」
 ぎょっとする一騎を他所に操は総士に跳びつく。抱きつかれる総士は張り倒されんばかりである。
「俺嫌だよ! 一週間も総士がいないって、そんなの……!」
「操……」
 総士は狼狽えた声を出し、徐ろに一騎のほうを見遣った。助け舟を求めるはずが、目が合うなり一騎は目を逸らしてしまい全くの手詰まりとなる。
「……泣くな」
 総士は弱り、仕方なしにぐずる操の背をぽんぽんと叩いた。
 
 
 
「操。少しは手伝わないか」
 総士は畳の上へダンゴ虫宜しく丸くなっている物体へ向かって苦言を呈した。冬用の敷布団を腕に抱えていたために、後一歩で躓くところだった。ダンゴ虫になった操は総士の言葉に反応も無く、だんまりを決め込んでいるようだ。
「……前もって言わなかったことを怒っているのか? それとも、家を空けることをか?」
 少し間があって、
「総士にだよ」
 答えがある。総士は小さく息をついて荷を下ろし、操の傍らに膝をつく。
「言わなかったことなら、謝ろう。お前も家の住人として知る権利があった。しかし後者に関してなら、不可能だ」
「どうしてさ」
「謝ったところで、取り消すことなど出来ないからだ。お前は気休めがほしいのか?」
「違う!」
 操は跳ね起きるなり剥れた顔で総士を睨みつけたが、その目線が総士に対して効果を発揮したことはあまり無い。
「なら、僕は何をすればいいんだ? 要求があるなら言わなければ分からない」
「遠くへ行ったりしないでよ」
「それは無理だ」
「なんでさっ!」
 憤る操の頭を総士は撫でた。染色体を失い、成長を止めた総士の身体は島に帰還した時から寸分の変化もない。それでも竜宮島は、フェストゥムの言葉で構成された異分子を以前と変わらずに受け入れている。
 総士の手を除けることもできない様子で、操は悶々とした表情で浮かべた。
「お前だって分かるだろう、操。もし行かなければ、僕は僕でなくなるからだ」
「俺は総士のために言ってるんだ! 俺たちの群と他の群が相容れないみたいに、君たち人間だって皆が皆友好的だとは限らないじゃないか!」
「そういったリスクも考慮に入れた上での司令の判断だ」
 総士の指が離れていくのを操は口惜しげに見、拗ねたように呟く。
「俺だって信じたいよ。君たちの選択を」
「……なら、操──」
 総士が妥協案を口にしようとした時、廊下の床木が軋む音がした。
「自転車、借りてきたぞ」
 居間に顔を出した一騎は二人を包む空気を見て取って口を噤んだ。総士は一騎を一瞥して続ける。
「僕が会談に参加する間、お前と思考を共有しよう」
「え、」
 操ばかりでなく、総士の視界の端で一騎もまた目を丸くした。
「つまり、一週間の間、僕とお前でクロッシングをする」
「いいの? 総士の考えてることが、全部俺に分かっちゃうんだよ?」
「一騎と僕も、かつてそうしていた。嫌か?」
 操はまじまじと総士のことを見、ぶんぶんと首を振った。徐々にその顔が綻んで、金の色彩を孕んだ目がくにゃりと笑う。
「そっか、へへ」
「了解したなら、用を済ませて来い」
「うん!」
 操は頷き、床に置いてあった布団を抱え上げるとさっさと廊下へと運び出す。操のために用意した布団で、秋になる前に打ち直しに出すことにしたのだった。
「一騎、自転車に積めばいいんだよね?」
「あ、ああ」
 一騎はぼんやりとした返事を返す。
「操、きちんと結べるのか?」
 総士は一人で作業をこなすつもりらしい操に不安を覚え、小走りに操の後を追おうとした。廊下の暗がりに三歩踏み出したところだった──先へ進めなくなったのは。背後から抱きしめる腕があった。
「一騎」
 嗜める為に発した声は鋭さを欠いて仄かな柔らかさを帯びる。腕の主は他人の体を拘束しておいて、呼びかけに応じる気配も無い。
「……クロッシングする、と言ったことか?」
 一騎は項に流れた髪に顔を埋める。まだほんの少しだけ追いつけない背のことを一騎が歯痒く思っていることは、総士もそれとなく感じている。
「本当に、行くのか」
 操と同じようなことを言うのだな、と総士は苦笑した。
「お前は、納得しているものと思ったが」
「できるか、そんなもん」
 こんな風に一騎が鬱屈した態度を見せるのも久しぶりである。少なくとも、総士が帰還してからこの方大分落ち着いているように見えたものだ。
「俺も、行かせてほしい」
 背中に一騎の暖かな声を聞きながら、こう云うのを何と云うのだったか、と総士は内心首を傾げた。そう、幼児返りだ。
「そうだな。……考えてみよう」
「嘘じゃないだろうな?」
 総士は一騎に向き直り頷いた。
「ああ。本当だ」
 拗ねたような顔の一騎の頬を包むように撫でる。同化現象の名残で、薄鳶色の双眸は幾分か赤みがかって見える。半ば強引に玄関へ押し出すように促すと、漸く手間の掛かる子供二人を誘導し終えることが出来た。
「一騎、総士、ちゃんと積んだよ!」
 操が喜び勇んで顔を覗かせる。総士は傍らの一騎の背を励ますように押した。
「総士っ、お釣りで何か買ってもいい?」
「ああ。好きにするといい」
 操はにっこりと笑い、小さくやった、と呟いた。
「じゃあ、昼には戻るから」
 言った一騎の目の端に物言いたげな色が見え隠れする。
「ああ。気をつけるんだぞ」
「分かってるから、心配しないでよ、総士」
「いってきます」
 何とか未練を断ち切ったらしい一騎の肩越し、玄関の軒先に降り注ぐ陽射しは真夏のそれで、ひんやりとした室内から見る白い砂利の眩しさに総士は目を細めた。
 
 
 
 ラムネの口を密閉する硝子玉がポン、と小気味良い音を立て瓶の中へと落ちる。途端に溢れ出してきた炭酸水に操は仰天した。
「わっ」
 地面にばたばたと零れるラムネを凝視している操に、一騎は無頓着に瓶を差し出した。
「早く飲めよ。勿体無いだろ」
「う、うん」
 操はずぶ濡れになった蒼い瓶を受け取ると大急ぎで口をつける。咥内に流れ込んだ炭酸が舌の上で弾けて喉を滑り落ちていく。操は大袈裟にも思える所作で一騎を振り返った。
「おいしい!」
「よかったな」
 一騎は微笑して返す。
「一騎は飲まないの?」
「俺はいいよ」
 答えて、操が二番目に覚えた名前の主はあらぬ方を向いた。
 正直に言えば、一騎の口下手っぷりは総士に負けず劣らずである。しかしその反面、頭の中を推測することはさほど難しくなかった。例えば今、ぼんやりと自転車に積んだ買い物袋を眺めながら考えているのは、大よそ今晩のおかずか総士かの二択だろう。
 傾けたラムネ瓶の中で硝子玉がカラン、と音を立てた。
「一騎は、総士と一緒に行くの?」
 一騎は操を見返し、少しの間逡巡した。頬杖を付いて浮かべた笑みは自嘲の入り混じったものである。
「いや、どうかな」
「でも、行きたいんでしょう?」
「行きたいって強請って行かせてくれる奴なら、苦労はしてないよ」
 ふうん、と操は淡白な相槌を打つ。一騎が総士の傍にいるなら心配要らないのに、と思ったことをそのまま口にする。
「お前こそ、」
 一騎が思わずといった調子で言った。怪訝な表情を向けられる理由が操には分からない。
「言ってみればいいだろ、あいつに。一緒に行かせてくれって」
「俺は行けないよ。君たちの邪魔をしたくないからね」
 当然でしょ、と操は小首を傾げる。一騎は益々物言いたげな顔になった。
「一騎だってそう思うでしょう? 俺たちの群はもう、君たちに戦わせるという選択肢を放棄したんだから」
「そうか」
 一騎は呟いて前を見据えた。
「一騎は、残ることになったらどうするのさ?」
「もしそうなったら、俺にできるのは待つことだけだ」
 口惜しげな声音は、残りの九を飲み下して一を言った、という風である。
「俺は、あいつの重荷にはなりたくない」
 一騎は独り言ちる。操は一騎の横顔から目を離してラムネ瓶を空に透かした。汗をかいたラムネ瓶の向こうに一際蒼ざめた空が見える。
「人間は、悲しいね。遠い所へ行ったら相手が何を考えているかも、感じているかも分からないんだから」
 操は思ったことをけろっと口に出す。人間の特質がそれだけでないことは理解している。そうでなければ、再びここを訪れることもなかっただろう。けれど悲しいと思うのは本当で、本当のことを言わない理由が操には無い。
「だから、するのかもな、挨拶」
「へ?」
 唐突な一騎の呟きに思わず発した声は間抜けな音になった。一騎は自分の中ではすっかりと結論が出た顔で言う。
「会えないから、ちゃんと帰ってくるか分からないから──遠いところに行く時には、ちゃんと帰ってくるって約束するんだ」
「だから、挨拶?」
「分からないけど……多分、そうなんじゃないか」
 一騎の言わんとすることはぼんやりと掴めたものの、どこか釈然とせずに操は足をぶらつかせた。
「そんなの、不確かだ」
「そうだな」
 一騎が頷く。操は底が見えるラムネ瓶の中を覗いた。
「多分、一騎は総士と一緒に行くことになるんじゃないかな」
「え?」
 一騎は操を見返した。顔には抑えきれない期待が見え隠れしている。
「何でだよ」
「分からないけど、分かるんだよ」
 操はいつぞやの一騎の口調を茶化すように真似た。顔を顰める一騎を横目にふらりと立ち上がる。行きは一騎が押してきた自転車のハンドルを握る。
「早く帰ろうよ、一騎」
「お前のために待ってたんだぞ!」
 小さく吠える一騎を無視して操は笑みを浮かべた。
「ああ、早く帰って総士に会いたいや! 総士の話をしたせいかなあ?」
「お、俺だって……!」
 語尾は曖昧に消える。うん? と操が振り返ると、一騎は僅かに紅くなった頬で目を逸らした。もごもごとどもり、結局先に歩き出す。一騎が早足で歩けば、操は追いつけないというのに。
「待ってよ一騎、速いってば!」
 
 
 
 中天に昇りきった日がとろりとした陽射しを落とす中で、自転車を石段の上まで担ぎ上げる作業に没頭するとあっという間に汗が噴き出した。
 有耶無耶になった会話の真意を執念深く追及する一騎とはぐらかす操とで押収を続けながら、一階の玄関を潜った。
「だから、君たちの言葉でいうと、勘ってやつなんだよ。何も隠してない」
「そうなのか?」
 一騎は得心いかない顔で唸った。話し声を聞きつけた総士が階段から顔を出す。
「帰ったのか」
 轆轤の据えられた工房へ姿を現した総士を見た途端、一騎は挙動を止めた。ゆったりと開かれたワイシャツの襟元と捲った袖口。普段より高く括られた髪の下から白い項が見え隠れする。濡れた手を布巾で拭いながら二人を出迎える。
「遅かったな。きちんと用足しは出来たのか?」
「できたよ! 当たり前じゃないか」
 操が不満を声に出す。
「そうか……よくできたな」
 律儀に褒める総士に気分を良くしたのだろう、操は堪え切れなくなったように笑いかけた。
「総士、あのね!」
「……どうした?」
 操はすう、と息を吸うと威勢よく声を張る。
「ただいま!」
 総士は僅かに意表を突かれた顔をし、すぐさまああ、と仄かな笑みを浮かべた。
「おかえり」
 にっこり笑った操が跳ねるように靴を脱いで上がる。
「麦茶、作ってあるぞ」
「はぁい!」
 操の背を見送り、ほっと安堵の息をついた総士は一騎を振り返る。
「お前も、汗を拭いてこい」
「ああ、」
 一騎は頷いて黙然と階段へと向かった。その先の行動まで考えが及ばなかったのは総士の落ち度ではなく、傍らを通り過ぎる一騎が呆れるほどのさり気なさで腕を掴み寄せたせいだ。
 ぐいと引き寄せられた一刹那、汗と日差しの匂いが総士の鼻先を掠めた。追って柔らかい感触が唇に重なる。甘く潰れた感触だけを残し、一騎は文字通り瞬く間に背を向ける。
「……ただいま」
 ぶっきらぼうに背中で告げて、一騎はぽかん、とする総士を置き去りにした。階段がぎしりと音を立てる頃、総士はようやく我に返る。
 
 青天白日・九夏三伏──夏半ばだ。