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心にものは

 竜宮中学校に通う立上芹は、中学校の生徒会副会長と、生物部の活動にと、忙しい日々を送っている。
「芹ちゃんは元気がいいわね」とは前々から言われていたことだけれど、活動に本格的に熱が時入り始めたのは最近のことだ。島の様相ががらりと姿を変えた過去の三年。日本の片田舎の島に過ぎないと思っていた生まれ故郷が、実は戦場の上に作られたかりそめの城だったと知った日。
 平穏な暮らしが限りあるものだと知った時、それまでになく切迫した思いで、一日一日をたいせつにしたいと思うようになったのはきっと芹だけではない。
 平和な時間は、この先もずっと続くわけではない。ファフナーに乗った経験が、芹に本能的に戦いという現実を知らしめる。
 ファフナーに乗ってから、芹は花も、動物も、虫も、島に生きる命のことをもっともっと知りたいと思うようになった。けれど、いざ研究だとしゃかりきになる芹の前にはとある高い壁が立ちはだかっていた。
 ──部活の活動費、という大問題である。
 芹の所属する生物部の予算は少なく、現状として、芹が思うように校外活動に勤しむことができずにいる。
 虫の事にしか頭が行かない部員たちに比べて目端の利く芹が、生物部の経営全般を担う形になったのはまぁ、なり行き上そうなったという面は否めなかったが、押しつけられたわけではない。
 芹のがんばり次第で生物部の活動の幅が広がると思えば、いくら忙しくてもなんてことはない。
 特に今回は特別で、実を言うと芹は今年度の夏休み、生物部でのキャンプを企画していた。
 予算とにらめっこをすれば、予算が支出を大きく下回っていることは明らかだ。増員のための広報活動に躍起になってみても、一朝一夕に増えるものではない。
 ──どうしたら、予算を増やせるんだろう。夏休みはもう目前なのに。
 今日も今日とておなじ問題に頭をフル活動させながら「失礼します」と声をかけて、芹は生徒会室の扉を開けた。
 昼休みに入ってから若干の時間が経過していたのは、四時間目の終わりに所用で職員室に立ち寄っていたせいだ。
 いつもならば誰かしら─―ほとんどの確率でファフナー搭乗者の誰かだ─―の談笑が漏れ聞こえるはずの部屋が今日は妙に静かで、芹はぽかん、とする。
「あれ、誰も、」
 いないんですか、と独りごちる。
「立上か?」
 すると、静かな声がした。机の上に山積したファイルの山に埋もれるように顔を覗かせたのが皆城総士で、芹はドキリ、とする。
「そっ、総士先輩?」
「生徒会の連中ならいないぞ」
「いない? み、みなさん、どこ行っちゃったんですか?」
 芹はきょろきょろと生徒会室のなかを見まわすが、室内には総士ひとりで他の役員の姿はどこにも見えない。
「みな、バレー部の予算引きあげを賭けて試合中だ」
「なんですかそれっ」
 呆れた声が出た。すくなくとも、芹には初耳のことだ。知っていたら止めたかもしれない。
「一向につかない予算に痺れを切らして、バレー部の部長が勝負を挑んできたのを剣司が受けたんだ。生徒会側が一騎を引っ張りだしていたから、恐らく申請は通らないだろうが」
 総士は手元に眼を落して言う。どことなく愉快げな総士の顔を見て、芹には言わんとしていることがなんとなく分かる気がした。
 ──「西坂の秘密兵器」を持ち出すのなら、最初から予算増額なんてする気はないのではないだろう、という。
 芹の心中を見透かしたように、総士は続ける。
「半分は余興だろう。関係ない者もみな観戦に行った」
「総士先輩は、見に行かないんですか?」
「ああ。僕は、後で話を聞くさ」
 芹は後ろ手に戸を閉めて、総士のかたわらに歩み寄った。
「あの、先輩は……生徒会で何を?」
 ほぼ毎日生徒会へ出入りしている芹だったが、総士とここで出くわしたのははじめてだ。
 生徒会役員ではない総士が生徒会室にいるのはおかしなことのはずなのに、こうして見るとひどく似合いだと芹は思う。
 ──そういえば、フェストゥムが島に来る前は生徒会役員だったんだっけ、総士先輩。
 と、今の今まで忘れていたはなしを思いだす。
「僕は、文化祭出展申請書のフォーマット作りだ。頼まれてな」
 説明して、総士はようやく芹がここにいる理由を把握したようだった。
「そういや、立上も生徒会だったか」
「はい。あ、えーっとぉ、その申請書のことなんですけど、」
 芹はおずおずと切りだした。
 実は、明朝から受付が始まる中高合同の文化祭出展申請書を、高校の生徒会から受け取って印刷するのは芹の分担なのだ……とは、流石にこの状況では言いだしづらいが、芹は何とか言い切った。
「それは悪かった。剣司に泣きつかれたのが昨日なんだ」
「い、いいえっ」
 芹はブンブンと顔を横に振る。総士に非があるわけではない。総士は元生徒会だったとはいえ、実際には部外者なのだ。
 おまけに、本職の生徒会役員たちがバレーの観戦中に働いているというのに、総士が謝る筋合いは断じてない。
「昼休み中には印刷に回せると思うが」
「あ……じゃあ、待ってていいですか?」
「ああ、構わない」
 芹が言うと、総士は軽く頷いた。座ったらどうだ、と斜め向かいの席を勧められて、芹は甘んじて席につく。
 学内で印刷機は職員室にしかないため、借りに行かねばならない。ここで受けとって、そのまま直行すれば早い。
「立上は、観戦に行かないのか?」
「いえ、あたしは」
 そちらに心が惹かれないわけではなかったが、芹はかぶりを振った。なんだか、賑やかな場所や場面が苦手になりつつある芹である。それに、にぎやかなバレーの試合よりもこころ惹かれる場所が目のまえにあった。
「──あの……先輩」
「何だ?」
 総士はファイルとコンピュータの液晶とを見比べる片手間に問うた。
「総士先輩に相談事……って、アリですか?」
「生物部の予算に関してか?」
 出しぬけに頭の中の中身を口にされて、芹は目を丸くした。
「な、なんでっ?」
 総士はちらりと芹を見た。
「今の話で思い出したんだろう? それに、立上の広報活動は有名だ」
 生物部の名前が売れるのは嬉しいことだが―─生物部よりももはや立上芹の名の方が有名であることはまた別の話だ―─、総士にそう言われると手放しで喜べない気もする。
「予算増額の申請なら、まず書類を通すべきだな」
「それじゃ話が通じないから先輩の意見をもらいたいんですって!」
「何か、予算が降りそうな勝算はあるのか?」
 問われて答えに詰まると、総士が「ないのか」と息をつく。
「しょ、勝算は無いけど熱意はあるんですか!」
 負けじと芹は声を張る。しかし総士はさすがは戦闘指揮官というべきか、あくまで冷静だ。
「生徒会予算にも限度があるから、部員数の多い方が優先されるのはしかたない」
 どうやら生物部が貧乏部から脱せないのは部員数に原因があるというところまで知っているらしい。総士は芹を一瞥した。
「……だが、部員が足りないなら足りないなりに方法はある。手っ取り早いのは、実績を示すことだが」
「生物部に実績なんてあるわけないじゃないですか! それでもみんなの役に立ってるんです!」
「そうなのか。知らなかったな」
「そうなのか……って、生物部は飼育小屋の掃除だけしてるわけじゃないんですよ! ひとり山のゴミ拾いだってみんな愚痴言ってもちゃんとやってますし、雑草と使える草は分けてから草むしりしてるし……」
 総士は、恐らく聞いていないということはないのだろうが、作業の手を滞りなく進めている。
 ──一騎先輩もいつもこんな感じなんだろうか、と、気がつけばいつも総士のかたわらにいる上級生のことが頭に浮かんだ。
 もしかしたら、彼の話であれば、総士はもっと熱心に耳を傾けるのかもしれない。そう思うとどうしてだか、悔しかった。
 ──諦めるものか、と芹は奮起する。
「科学の授業で使うメダカだってみんな生物部が養殖してます。生物部の調査のお陰で授業がはかどるって、先生にも褒められたんです! 乙姫ちゃんが──乙姫ちゃんのお陰で、この島が命のこと学んだって聞きました。だから、この島で生きてる虫のこと、植物のこと、魚とか他の動物のこと、もっともっと知りたいんです。でもキャンプに行くにはお金が足りません! だから、だから……」
 自分で自分の言葉に絡まり、徐々に頭がこんがらがってきた芹はその先の言葉を見失った。
「……っだから、生物部は無駄部なんかじゃありません!」
 言いきると芹は大きく息をつく。はっ、と気づいて顔を上げると総士が芹を見ていた。
「立上」
 じわっ、と顔が熱くなる。それでも総士の反応を見逃したくなくて、目を逸らすことはしなかった。
「せ、先輩、あたし、」
「今言ったことを、文章にして提出してみろ。今年度のキャンプ費用くらいは降りるだろう」
 言い繕う言葉を探していた芹は信じられない心地で総士を見返した。
「え……?」
「君は、相手との対話の中で自分の言葉を導きだすタイプらしい」
 芹の混乱なぞどこ吹く風、総士は淡々と分析している。
「で、でも、」
 ぶっちゃけた話、芹は今自分で口にしたことの半分も覚えていない。今まで芹にとっては、行動が何よりも先立ってきたし、それが本分なのだと思い込んでいた節があった。
 だがらがむしゃらに、レクリエーションに実験にと駆けずり回っているのだ。
 口では何かよく聞こえることを言ったのかもしれなかったが、それと同じ文章を紙の上に書くのはひどく難しいことのように芹には思えた。
「口にしたことを、一度自分のなかに取り込む癖をつけるといい。折角のアイディアを無駄にしないで済む」
 総士は助言のようなことを言うと走らせていたペンを置いて、その紙をいきなり芹に差しだした。
「……これ、」
 芹は目を丸くする。そこには芹が話したことが順序立てて、お手本のような字で書き連ねてあった。いつの間に、と思ったことが口から出てしまう。
 恥ずかしながら、読み返すことで初めてぼやけた記憶が磨かれて、はっきりと言葉としての輪郭を持ってくる。
「立上自身の言葉で書き直すくらいは、できるだろう」
 問われて、芹は勢いよく頷く。
「どうしても必要なら、僕が口添えすることもできるが」
「いっ、いいえ! それはさすがに、」
 芹は首をぶんぶんとかぶりを振った。ただ、たまたまここにいて、芹の相談ごとにつき合わされただけの総士をこれ以上巻きこむことはできない。
「そうか。なら、健闘を祈るだけだな。立上なら、僕が祈るまでもないだろうが」
 言うと同時に彼自身の仕事もひと段落ついたらしく、書類の束を整えて、総士は笑った。その笑みがあんまりにやさしくて、芹は呼吸を止める。
 生徒会室の窓から差しこむ白昼の陽ざしが、彼の肩口を流れる長い髪を金色に輝かせている。
「先輩……それ、買いかぶりです」
 芹は思わず目を逸らして、蚊の鳴くような声で言った。心臓がぎゅうっと絞られて、脈拍が速度を上げていく。いつぞや聞いた言葉が唐突にリフレインした。
 いつだったろうか。
 ──好きだった。
 と、男勝りなくせに男の扱いに長けていると評判の芹の先輩はそう言った。その日は竜宮中学校の時間割でいうところの「アルヴィスの日」で、地下で模擬戦闘があった。
 訓練の準備が整うまで手持無沙汰に搭乗者のなかには女子が多く、すっかりと井戸端会議の様相を呈していた。
 そういった人もいる、と聞いてはいたが、芹自身面と向かって遭遇したのは初めてのことだった。都市伝説ではないかと半ば疑っていたのだが、どうやらそれが実在したのである。
「あたし、実はあいつのこと好きだった。すこし」
 彼女は言った。瞬く間に取り囲んだ後輩たちが色めき立った。芹はと言えば、脳天を雷か何かに撃たれたようなここちに陥っていた。
「こっ、告白したんですか!?」
 芹の困惑を余所に、たちまち渦中の人になった彼女は下級生からの質問攻めに遭う。
「ううん、しないしない!」
「じゃあ、あの、彼には」
「言うわけないっての! なんか……そういうんじゃなかったのよ。言っとくけどコレ、ここだけの話ね」
 彼女は人差し指を口元に当てて笑った。その顔からは、もう彼女のなかでは吹っ切れているのだろうことが分かった。
 そうなんだ!という声、意外~!という声、入り乱れて当直室に響き渡った。芹は喧騒に独り取り残されながら、「好きだった」という言葉を幾度も反芻していた。
 
 *
 
 正直を言うと、芹はどことなく、「総士が好き」だと云う女子の存在が信じられなかった。
 ──好きだった。
 どうして、その可能性を否定してきたのだろうか。
 総士は境遇から他の同級生とは明らかにタイプが違うけれど、見目は間違いなく「良い」の部類に入るのだろうし、憧れの対象には十分なりえる、と思う。芹は、色恋沙汰というものに疎くてその手の噂には縁がなかったけれど──里奈あたりなら、上級生の誰が人気か、という情報もきっちり握っている可能性がある──。
 だが芹は、総士に憧れることと「好き」になるというのは微妙に違うと思っていたのだ。芹はどこか、特別な総士を「好き」になる人はやはり特別なのだ、と思っていた節があった。
 何がどう特別なのかは分からないが、彼に釣り合うためには凡人ではいけないのだろうと。だが、勝気な雰囲気が魅力的な上級生の彼女は、何か柔らかいものを見る目であの言葉を口にしていた。
 彼女を目の前にして、それが憧れだったか「好き」だったかなんて判断できるだろうか、と芹は自問した。
 もしかすると、──総士を好きになるのに特別である必要なんてなかったんじゃないか。
 特別であると思いこもうとしてきたのは、単純に芹が怖かったからではないのか。自分が、そのどちらにいるのかと理解するのが。
 可能性に気づいてしまうと、躊躇いもアドバンテージもたちまち意味を失っていく。目まぐるしく思考しながら学校の廊下を歩いていると、見計らったかのようなタイミングで亜麻色の髪が視界を掠めた。
 はっとして昇降口のほうへ足を向けると、目当ての背中にすぐに行きあたる。
「総士先輩!」
 声をかけると総士は右側から振り向いた。
「立上」
「先輩、ありがとうございました!」
 出しぬけに感謝の言葉を口にしただけで、総士は何を言われたのか理解したようだった。
「予算、上がったそうじゃないか。よかったな」
 総士はやわらかく言う。ハイ、と芹は弾む声とともに首肯した。
 総士に言われたとおり考えを文章に起こすのは予想どおりなかなかに大変で、それでもなんとか目一杯の想いを詰めこんだ申請書をはりきって提出すると、サマーキャンプ代金は賄えるほどの予算が下りた。
 こんなやり方が自分にも可能だったのか、と芹には目から鱗の思いだ。
「先輩のお陰ですよ」
「僕は立上が言ったことを書き写しただけだが」
 芹は思わず浮かんだ笑いを隠さず、
「だから、それを先輩のおかげ、って言うんですって!」
 と返した。総士は「なら、そういうことにしておこう」とすこし冗談めかした顔をした。芹はおおいに頷き、総士の手に提げられた包みに目を留めた。
「先輩、もしかしてこれからお昼ですか?」
「あ、ああ。そうだが」
「じゃ、じゃあ、もしよかったら……一緒に食べて、いいですか?」
 問うと、総士は目を丸くした。
「僕と?」
「それ以外に何があるってんです?」
「いや……そう言った誘いは珍しい」
 芹はふ、と笑う。だと思いました、と言うと総士はすこしムッとした。
「あ、いえ、先輩はいつも一騎先輩といるイメージだったから」
「一騎は今日、海野球部の練習に借り出されている」
 秘密兵器は連日忙しいようだ。
「そうなんですか……じゃ、屋上でも行きますか」
「……そうだな」
 なんだかんだ言って、申し出を断るつもりはないらしい。芹はほくそ笑んで、総士の隣に並んだ。廊下を歩くだけで、すれ違った級友はみなぎょっとした顔で振りかえる。
 皆城総士の名を聞いて「誰それ?」と返す生徒は、今やこの中学校には殆どいない。詳しい事情は知らずとも誰もがその名を一度は聞いたことがあるはずだ。
 そもそもの素性が元中学校長の息子にしてアルヴィスファフナー隊元戦闘指揮官である。それに加えてフェストゥムの側から帰還したという神がかり的なエピソードが追加されて、総士の周囲には一層特別という言葉が渦巻くようになったようだった。
 剣司ら上級生があくまで同級生として扱っていなければ、そんな特別視にも今より拍車が掛かっていたはずである。
 そ知らぬ顔をして芹は「先に行っていてください」と途中で分かれ、自分の教室へと取ってかえすと弁当を引っ掴み、急ぎ足で屋上へと向かった。
 屋上にはすこし強い風が吹いていて、総士はそこから見える校庭のほうへと視線を投げていた。淡い色の長髪を髪が梳いて──きれいだな、と芹は思う。異性の上級生にそんな感想を抱くのは、おかしいかもしれないけれど。
「お待たせしましたっ」
 芹は総士のかたわらに腰かけて、総士の膝のうえの弁当を覗きこんだ。
「あっ、先輩自分で作ったんですか?」
 総士の弁当箱には、きれいに切りそろえられたサンドイッチが並んでいた。
「作ったと言うほどではないが」
「でも、パン切るのだってはじめの頃は難しくないですか?」
「あぁ……初めは、中のトマトを潰さずに切るのに手こずった」
 総士は思い当たる節があったらしく難しい顔で頷いた。
 この上級生が大真面目にサンドイッチを切っているところを想像するとなんともおかしく、同時に愛らしく思えて、芹は笑みをこらえきれない。
「だが、ひとりで生活をするのなら必要になることだ」
「なんか、一騎先輩なら手伝うって言いだしそうですけど」
 芹が呟くと、総士が「一騎?」ときょとんとした顔をする。
「……そこまで、あいつに頼るわけにはいかない」
「そう、ですか……」
 芹は自分には関わりのない話にも関わらず、なんだかしゅんとしてしまう。
 どこか、一騎の気もちが分かってしまうからかもしれなかった。芹はそれを、言おうか言うまいか迷い、結局口にした。
「あたし、だったら……頼られれば頼られるだけ、うれしいって思っちゃいますけど」
「なに?」
 総士が驚いた顔をして、芹の頬が熱くなる。なんだかおかしなことを口にしているような気もしたけれど、止められずに口が勝手に喋りだす。
「べ、別に一騎先輩に聞いたわけじゃありませんし、あたしの勝手な想像なんですけど……一騎先輩もきっと、離れなきゃいけない時っていうか、これでいい、って思える日が来るまで、ずっと、いつまでだって一緒にいたいって思うんじゃないかなって。そういう人っていますから……誰にでも」
 芹は言うと、手にしていたおにぎりを頬張った。すこしおおきく握りすぎたと思っていたまるい形は、口いっぱいに詰めこむにはちょうどいい。そうしていないと、何かが溢れてしまいそうだった。
 しばし沈黙が降りる。総士は何も言わなかったが、芹と同じ存在を思いうかべているのだろう。
 総士と芹がこんな風に会話をする時、岩戸の外では極力乙姫の名前を出さないことが暗黙の了解のようになっていた。
 殊更「以前の」彼女に関することは。芹自身は、──似ている、と思ったことは、実はあまりなかった。
 髪の色も目の色も、表情だって近しいとは思わない。それでも、不意に彼らが遠くを見る時──他の人間には見えない世界を見つめている横顔にお互いを見いだすことが度々あった。
 どんなに兄妹らしくなくとも、乙姫のなかにはいつも総士がいたし、総士のなかには今でも皆城乙姫が棲んでいる。
 もしかしたら、普通の兄妹より強く、彼らは繋がっていた。
 芹は黙々と米を口に詰めこんだが、ややあって底抜けに明るい声を出す。
「ところで先輩っ、何が好きですか?」
「は?」
「食べ物ですよ、食べ物っ!」
 総士は怪訝な表情を隠そうともしない。変なところで分かりやすいなぁ先輩、と芹は胸の内で思う。
「……全く、脈絡が見えないんだが」
「あたしも作ってみたくって。料理」
「もう作っているじゃないか」
 総士は芹の弁当箱を一瞥して言った。
「作れるって言ったって、まだまだ一騎先輩みたいにはいきませんから。先輩に味見、してほしいんです」
「なら、立上の好きなものを作ってきたらいいだろう」
「でも先輩が食べられないものだったら困るじゃないですか!」
 芹がごねると、困ったように総士の眉尻が下がる。
「何でもいい。特に好きなもの、というのがないんだ」
「じゃあ、お昼作ってきたら先輩、食べてくれますか?」
「いや、それは、」
 総士は切れ味の悪い返事をした。しかし芹はその先の答えを察する。
「えと……迷惑、ですか?」
「そういうわけじゃない」
 芹は俯いた。膝の上で組んだ指を真剣な強さで握り締めていたことに気づいた。
「それって……やっぱり、」
 もう一度総士を見ようとしたとき、
「立上?」
 芹は跳ねる勢いで振り向いた。芹を呼んだ人物は驚いた顔をしている。
「一騎先輩」
 芹は呆けた。一瞬遅れて、頭が回り始める。
「もう終わったんですか? 練習」
「あ、ああ。なんとか」
 一騎は──何で立上がそのことを? といった表情をした。分かりやすい。
「いっしょに昼か? 珍しいな」
 一騎の呟きには総士が頷く。
「ああ、偶然会ってな」
 芹と総士とを見比べて、
「なんか、意外──でも、ないか」
 一騎がそう言ったのは、一騎なりの共通項を見出したからだろう。
「はいっ。こないだ、総士先輩に生物部の予算改善手伝ってもらったんです」
「へえ」
 一騎はすこし笑った。
「よくここが分かったな」
 感心した声は総士から。
 一騎が今、ここにいるということは、駆りだされた先の運動部の連中と昼食の席を囲む、なんてことはせずに用事が終わったらさっさと総士を探しに来たということなのだろう。
「うん、何となく」
 一騎は曖昧に答えたが、なんとなく鼻が利いて、と続けたいだろう一騎の気もちは芹には痛いほど分かる。
「一騎先輩もお昼、いっしょにどうです?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 一騎は頷いたが、不意に身動きを止めたきり座る気配が無い。また総士も、どう助言してよいのか分からない、という表情になった。芹は無言で固まってしまった二人を見て、大いに吹きだす。
「もしかして、どこに座ろうか迷ってたりします? 一騎先輩」
 
 *
 
 例えば、言いたいだろう気持ちが察せられる、とか、共感できるな、と度々感じる相手というのは圧倒的に一騎のほうだった。
 以前、ひとり山を歩いている時に出くわして以来、芹のなかでその認識は色濃くなった。反して、総士に共感するという経験はあまりない。
 何を考えているか理解できても、生まれてくるのはシンパシーではない。言うなればそれは、憧憬と呼ぶべきものだった。
 総士に対する、ではない。総士が見つめているらしい、芹には見ることのできない世界に対する、だ。乙姫に対しても芹は同じ感覚を抱いているところがある。
 彼らのいるどこか知らない世界というものを知りたい、と思ったし、そのために底なしの孤独を抱える彼らにどうしようもなく惹かれた。
 できるなら傍にいって抱きしめたい、という願いは隠しようもなく明白で純粋で、より多くの感情を共有できるだろう一騎や同級生には感じない感情だった。
 乙姫の傍にいるとき、ドナーとして島と一体化したとき、震えが来るほどの恐ろしささえ一時忘れるほど幸福だった、と芹は感じる。
 自動的にそうなってしまうのである。あまりのここちよさに、抗う気も起きないほどの軽やかさで。
 
 
 
 芹は岩戸へ通じる坂の上まで登って一息ついた。芹は眼下の光景にほっと深く息を吸って空を見あげる。傍らに山桜が咲いていた。
 染井吉野のように一斉に咲いて一斉に散るのではなく、じっくりと長くその春を謳歌する。芹は手に持っていたものを抱え直して幹に触れた。
 ざらりとした樹皮のぬくもりが心地よくて、頬を付ける。
「乙姫ちゃん、今年も咲いてるよ」
 乙姫といっしょに、狂い咲きではない、春の桜を見るのは芹の夢だった。これからも叶うことのない夢。生命の循環を学んだ島のミールの元で、島の桜は毎年咲いては散り、再び咲く時を待つ。
 木から体を離し岩戸のほうを見遣ると、人が佇んでいた。芹はにこりと笑う。
「先輩っ。帰るところですか?」
 芹が声を掛けると突っ立っていた総士はああ、とようやく身動きが取れたようだった。
「立上は、今来たところか」
「はい!」
 総士が歩み寄って芹がそうしたように山桜の木を見あげた。
「よく咲いている」
「先輩、今まで見れませんでしたもんね。去年も一昨年もすっごく綺麗だったんですよ、」
「……そうか」
 総士はかすかに相づちを打って、遠い目をした。いわゆる「第一次蒼穹作戦」以降、花々は何事もなかったかのように咲き綻んだが、その花を咲かせた島のコアも咲く場所を護った総士も遠い地へ去った後だった。
 それから二年間の時間が、総士からは失われている。島への帰還を果たすまで、総士は文字どおり無のなかにいた。
 高校に編入という形を取っていたから尚更、関わりの薄い者にとっては「いつの間にかいなくなり、気づいたら帰ってきていた」という程度の認識かもしれないが、総士と同級生の間には埋めがたい二年間が横たわっている。
「先輩、約束、覚えてます?」
「約束?」
「もう、やっぱり先輩はぁ」
 総士は苦い顔をした。
「いつの話だ?」
「この間、試食してくださいね、って言ったじゃないですか」
 芹が言うと総士はああ、と合点の行った顔をした。
「そのことか」
「ちゃんと作ってきたんですよ、ほら!」
 芹はランチマットに包まれたそれをずいと差しだした。反射的に受け取った総士が物言いたげな顔をするので、何を考えているのか芹は察した。
「違います違います、別に待ち伏せしたわけじゃないです! 帰りに先輩のところに寄ろうと思ってたんです!」
「そうか」
 総士は呟き、包みに目を落とした。
「ずいぶん大きいな」
「牡丹餅です。立上家直伝で味は折り紙つきだから、試食にはならないかもしれませんけどっ」
 芹は胸を張って言う。
「立上」
「何ですか?」
 芹は小首を傾げて総士を見かえす。総士が、風に煽られた髪を押さえる。吹く風のなかに、不意に冬の名残を感じた気がした。
「言っておくが、僕に乙姫を求めても不毛なだけだぞ」
 怒鳴ってもいないのに総士の声は驚くほど鮮明に芹の耳に届いた。芹は一瞬息を止めて、不意に吹きだした。
「嫌ですよ先輩、確かに先輩は乙姫ちゃんのお兄さんですけど、だからってあたしが間違えるはずないじゃないですか!」
「立上、僕は真剣に、」
「──分かってます!」
 芹は強い口調で総士の言葉を遮った。視界の端で総士が目を瞠る。思わず乱れそうになる息を、ひとつ吸って整える。
「それくらい……乙姫ちゃんとお別れしたあたしがいちばん、分かってます! ……それでも、やっぱり、できるなら先輩には笑っててほしいって思うんです──乙姫ちゃんにとって先輩がどれだけ大事だったか、分かるから。それって、勘違いだとか、取り違えてる、ってこととは違うと思います」
 芹は指先で山桜の木を撫でた。
「だから、心配要りませんから、本当に」
「……わるかった。立上」
 少し落ちこんだような総士の声がして、芹は反対に笑顔を作った。苦笑に近かったかもしれない。そうしないと、芹の方が泣きそうだった。
「もう、何しょげてんですか、先輩」
 それに、と芹は総士の抱えた牡丹餅の包みを示した。
「それ、先輩ひとりで食べきれないと思うので。一騎先輩と真壁司令にも分けてもらえますか?」
「……な、なぜ僕が」
「先輩だから、ですよ」
 ほら、じゃあ、あたりは乙姫ちゃんのところに行きますので! と声を張って、芹は総士の背中を押す。
「た、立上、僕は仮にも上級生なんだが、」
「そうですけど、あたしにとっては、大事なひとのお兄さんです! 感想聞きますから、牡丹餅、ちゃんと味わって食べてくださいね!」
「それなら一騎に任せる」
「えっ、それじゃあ、先輩に食べてもらう意味ないですって!」
 芹が叫ぶようにツッコむと、総士はやにわに立ち止まった。思ったよりも近くにあるきれいな顔が、振りかえるなりふと笑う。
「──冗談だ」
 じゃあ、とそのまま踵を返して坂を下っていく後姿を芹はぽかん、として見送る。春の日にきらめく亜麻色の尻尾が見えなくなった頃、芹は深く息を吐いてそのまましゃがみこんだ。
「先輩それ……冗談に聞こえませんよぉ」
 聞こえるはずの無い文句を今更垂れる。総士は約束を破らない。今度会う時にはきっちりと感想を聞かせてくれるに違いない。
 それどころか、あの元指揮官のことだ、手厳しい品評が待ち構えている可能性もあった。重ねた腕のなかに顔を埋めて、こころの奥、東風が吹き抜けるような寂しさをやり過ごす。
 ──あたし、嘘は言ってないよ。
 決して勘違いではなかっと断言できる。この胸の熱は、春の日に浮かされたからなどではないことは、充分に知っている。
 ここに乙姫がいたら何て言うだろうか、とそればかりを考える。不意に手の甲に薄桃色のものが舞い降りた、と思うと花びらだった。
 気まぐれに落ちてきたそれは、捕まえようとすれば指をすり抜けてひらり、跳んでいく。見上げた山桜は悠然として、未だ散る時を知らないでいる。
 風に揺らされた枝が芹に頷きかけているように見えた。