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26[#「26」は縦中横]歳の一騎さんが少年総士と暮らす話

 目が覚めても、それは夢でもなんでもなく──。
 夢なら、きっと目覚めた時に敵襲を告げる警報が鳴り響いたのだろう。そして彼が告げたに違いない。
「──ずき」
 かすかに目を開く。橙色に染まった陽光が、開けっぱなしの自室の窓から室内に差しこんでいた。
 炎上する火薬の臭いを思いおこさせる色だ。身体を包みこむ赤が記憶を呼び起こすように、目を開けたとき、きっと彼が告げてくれるに違いない。戦いを。今ここに、生きている意味を。
「……かずき──一騎さん!」
 一抹の期待──そして絶望の予感にうすら寒い心地を覚えながら揺すり起こされると、そこにはひとりの少年がいた。
 一騎のかたわらに膝をついて、いやに心配げな表情を向けている。
「どうしてこんなところで寝てるんです。風邪ひきますよ、一騎さん」
 歳の頃にして八つだったか。
 肩まである彼の亜麻色の髪は夕風につやつやと揺れて、赤い斜陽の色にほんのりと色づいている。
「……髪、伸びたな」
 返す言葉が見つからずに、てっとり早く目についた髪先を指で掬うと、はぐらかされたと思ったのか少年は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「また、そうやって……僕の髪のことなんてどうでもいいでしょう」
「どうでもよくない。伸びたら邪魔だろ」
「一騎さんは、いつもそうやってはぐらかすんですから!」
 もうしりません、といって、彼は立ち去ろうとする。
「待てよ、総士」
 ヘソを曲げてしまったらしい「総士」を追いかけようと、身を起こすと体のそこここが軋んだ。
 畳の上で寝ていたのが、さすがに祟ったようだ。十代の頃は、どんなにダイナミックな寝相を披露しても節々が痛むなんてことはなかったのに。
「俺が切ってやるよ。髪」
「髪くらい、ひとりで切れます。一騎さんは今日もアルヴィスで疲れてるんですから、いいんです、そんなこと考えなくて」
 夕飯の支度も僕がしますから、と言う「総士」は、実際のところ、まだ最近包丁を握りはじめたばかりだ。
 一騎自身は二歳の時に母を失っていて、小学校に上がる頃には既に台所に立っていたのだから──なにせ、父親は何年炊事をこなしても全く料理の腕を上達させないというある種稀有な人物だった──、総士のソレは半分以上一騎が自分でなんでもこなしてしまうことに原因がある。
 今も、自分は総士の手脚だ──という自負が、胸の片スミにあるのだ、たぶん。
「自分で切れるって、お前、こないだそれで前髪……」
 そう言うと、少年の白い頬に面白いほどに朱が上った。
 ある日、一騎が器屋に帰ると、総士の前髪が不格好なほどに短く切りそろえられていたことがあって、どうしたのだと訊いても総士自身は頑なに答えない。
 喉の奥に手をつっこむようにして吐かせると、どうやら自分で切ったらしいと分かった。
 誰か、学校のクラスメイトにでも切られたのではと一瞬頭のスミを掠めた憶測が否定されると同時に、一騎は吹きだしてしまっていた。一騎に笑われたことを、実は、総士は今でも恨みに思っているらしい。
「じ、自分の腕が未熟なのは知ってます。けど、自分でやらないと、上達もしません」
「分かってるよ、総士はちゃんとできるって。ただ、俺がやりたいんだ。俺の我が儘だから、許してくれないか?」
 な、と首をかしげると総士はフイッと顔を背け、ややあってコクリ、と頷いた。素直なさまがかわいくて、手ざわりのよい髪を撫でる。
 エベレストよりも高い総士のプライドと折りあいをつけるのは、存外、難しくないと気がついたのはいつ頃だったか。
 時々持久戦に持ちこまれることはあっても、折れたふりをする一騎の言い分を、最終的に呑むのは大抵総士のほうだった。
 今日は早々に一騎の思惑にハマってくれた総士を待たせて、新聞紙と鋏と、一式を揃えて戻る。
 小ぶりな腰かけに総士を座らせ、ケープを羽織らせる。最初はありものの袋で代用していたのだが、いつだったか、一騎がいつも総士の髪を切っていると聞きつけた鏑木家から、子供用のケープを譲り受けたのだった。
「じっとしてろよ」
「はい」
 動かないように言うと、総士は律儀なほど背筋をピンと伸ばした。彼の性根を表すかのように屈託なく、指の合間を零れ落ちる髪に鋏を入れる。
 ひとつ、鋏を入れるごとに、切り刻まれた稲穂色の髪が新聞紙の上に落ちていく。それは眩暈がするほどに罪深く、病みつきになるような感触だった。
「一騎さん」
 かすかな風に、軒先に吊るした風鈴が揺れる。
 ──一騎。と、いつか聞いた自分を呼ぶ声が、遠いさざ波に紛れ、少年の声に重なって聞こえた。
「あの……いいんですか。お父さん、今日帰ってくるって」
「ああ、言ってたな。けど、多分来ないんじゃないか」
 お父さん、とは総士のではなく、一騎の父親のことだ。今年で五十二になる。
 今は遠見医院と器屋真壁を往ったり来たりしていて──そもそも歩いて行き来できる距離だ──どっちに帰ってくるのか、その日になってみないと分からない。
 毎年恒例のU計画が近づいてきているということもあり、今日は器屋に帰ってくるという話だったが、ほんとうかどうかは分からない。
 まぁもし、急に帰ってくるということになったら飯は簡単に作ればいいし、と適当に結論づける。
「腹、減ったか?」
「ぼ、僕じゃなくて!」
「……ほら、動くなって」
 振りかえろうとした総士を制して、前を向かせる。後ろ髪は、白いうなじにかかる程度の長さ。男子の髪の長さにしては、まだ長いほうだ。
「もう少し、短くするか?」
 尋ねると総士はすこし思案して、いいえ、と答えた。
「いいです、このままで」
「なんで、短くしないんだ。他の奴らは、もっと短いだろ」
「分からない、ですけど……この方がいいんじゃないかって、思うんです」
 どこか、総士自身も理解できないでいるような、おぼつかない答え。なんとも言えない気分のまま、一騎は前髪を揃えるために総士の正面に回る。
 目にかかるほどの長さになっていた前髪を摘むと、何の疑いもなく、総士は目を瞑った。
「一騎さんは、嫌ですか? 僕の髪が長いと」
「いや……俺は、別に、嫌じゃない」
「なら、いいです」
 総士は目を閉じたまま、微笑を浮かべた。
「……なんで……」
「はい?」
 一騎の呟きを聞き漏らすことなく、総士は訊きかえした。スモーキークオーツの色をした双眸が、正面に膝をついた一騎を見る。その左目蓋を縦に裂く、一条の傷痕。
 ──どうして。
 白玉のような頬を撫でて、一騎はすんでのところで、疑問を呑みこんだ。
 ──どうして、その傷を消さなかったんだ、総士。
 生まれ変わって、新しくやり直すことになった人生にまで、伴う価値があったのか。この、俺がつけた傷に。
「一騎さん……どこか、悪いんですか?」
 頬を撫でた手に自分の手を重ねて、心もとなげに総士が囁く。一騎はただ、かぶりを横に振った。否定したいのだが、返す言葉が見つからない。いつもそうだ。伝えたい思いは有りあまっているのに。
「今日は、ちゃんとお布団で寝ましょう。変なところで寝たから、きっと具合が悪くなったんですよ」
「あぁ……」
 胸を溢れかえるものがあって、一騎は思わず、目のまえの少年の胸に顔を埋めた。ちいさな背を抱きしめる。やわらかく、何の穢れもない総士の手が、一騎の頭を撫でた。
「朝が来たらちゃんと、僕が一騎さんのこと起こしてあげますから。そうしたら、いやな夢なんて見ませんよ」
 ね、と少年が笑うので、一騎は頷く。
 この少年を総士と呼ぶことが、冒涜なのか、欺瞞なのかも分からない。けれど今の一騎はきっと、この目の前の存在がいなければ、生きていけないだろう。
 彼がいない孤独は、一騎には重すぎる。
「あぁ、そうだな……総士」