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Red Out

 終了式を翌日にひかえた日だった。小中一貫だったからあまり実感はないけれど、明日でいちおう、同級生の誰もが「小学生」を終える。天気は、門出にふさわしい小春日和だった。そろそろ昼休みも終わろうというころ、一騎は大縄を抱えて体育準備室への道を逆走していた。
 四時間目は移動教室で、一騎がぼうっとしている内に他の同級生はさっさと移動に移っていた。
 取りのこされたところをまんまと捕まり三時間目の後片づけを押しつけられる形になった。誰かが──たとえば遠見真矢が──見とがめでもしない限りフォローが入ることも少なく、決して断らない一騎は雑用を言いつけられがちだ。それを苦にしない一騎の気質も、大いに理由となっていた。時計の短針は三の字を指している。
 昼やすみが終わるまであと五分というところ。一騎は駆けぬける足三歩で渡り廊下をわたり、向かいの校舎へ足を踏みいれようとして急ブレーキをかけた。なにか聞こえた、と思った。物が倒れるような。とおくに余鈴を聞き校内へはいろうか、音のほうへと向かおうか逡巡する。
 一刹那のあと、──なにか胸騒ぎに背中を押されるようにして日差しのもとへと足を踏みだした。すこし汗ばんだ背中を、だいぶ暖かくなった春の風がなでていく。一歩踏みだした時、再度、ガシャン! という音が聞こえた。心臓が跳ねあがる。フェンスと校舎のあいまに降り注ぐ白い陽光の中に3、4人がたむろしていた。なにかをとり囲むように。その「なにか」は、見まちがえようもない、ひとりの人間だ。
 数人に囲まれなかば校舎の壁に凭れるようにして、胸倉を掴まれたすがたが一騎の目に飛びこむ。いつもはピシッと伸びた背が曲がっている。ほつれた長いおくれ毛が垂れる。亜麻色の、きれいな──。
 目の前がホワイトアウトして、瞬間、体がおどろくほど速く動いていた。脳ではない、別の部分から指令がくだっているようだった。遮二無二、人でできた塀を張りたおして中心の一人に喰らいつく。周囲が息を呑む間もなく殴りつける。
「グッ……!![#「!!」は縦中横]」
 脇腹に蹴り入れ、倒れたところを更に喰いさがり、後ろ手に押さえつけた。
「ゥグッ!」
 いい図体をした男子が一騎の腕のしたうめく。一騎は残りのヤツらを睨みあげた。あぜんとして立ちつくしている。ざわめきに紛れ、ひるむような空気があって、なかから「誰だ」
という疑問の声。追って「真壁だ」という囁きが聞こえる。噛みしめた奥歯がギ、と音を立てた。
「……あやまれ」
 どんな声が出たのか、一騎には分からなかった。ほとんど考えることもできずに口走っていた。ただ人いきれがみな一様に、半歩さがる。
「あやまれよ」
 一騎はした敷きにした男の体にグッと体重を掛けた。うあッ、と悲鳴が上がる。
「聞こえないのか──謝れ!![#「!!」は縦中横]」
 そのひとことで、わっと人垣がくずれた。舌打ちをして腕の力をゆるめる。おそるおそる、という風に男が一騎のしたから這いでた。じゃり、と砂を噛みしめる一騎の靴音に、
「ひッ!」
 情けない声をあげて、そのまま逃げていった。一騎が拳を握りしめたときだ。
「はァ……ゲホッ」
 小さな声が聞こえて我にかえる。見ると、ぐったりと校舎の壁に背をあずけた姿があった。よく、見知った──ずっと見てきた。気がつけば目が追ってしまって、ずいぶんと見ないふりもした。
 そんな風にして目を背けるのが嫌でたまらなかった、幼馴染のすがたが。
「総士……!」
 言葉を交わすのはいつぶりだろうか、ということも忘れてすがりついた。総士の手は脇腹を押えている。肩に触れると体が強張った。
「大丈夫か、総士!?[#「!?」は縦中横]」
 声に応じてゆるりと顔をあげた。よく見えていないのか2、3度まばたく。一騎がうしろめたさを背負ってから、こんなにも間近でその顔をみつめるのは初めてだ。ずいぶんと直視していなかった頬をひと目見て、一騎は愕然とする。
 白い白い左頬に、あか黒く殴打の痕があった。総士の手が押えているほうの脇腹も、蹴られたのだろう、所々についた泥もことごとく左側だ。腹の底から、震えるほどの怒りが湧いてくるのを感じた。
 ──あれくらいで、放してやるんじゃなかった。
 ゆっくりと時間をかけて総士が一騎を認識するや、その双眸は驚いたように見開かれた。
「かず、き……」
 総士は呟き、一騎の顔を見すえた。喉がつかえて声が出ない、というような顔を見て、一騎の胸をつきあげるものがある。一瞬、
「あの事件」
 から今まで、二人の間に存在した氷のような冷たい時間がすべて嘘だったのではないか、と思った。総士はやがて顔をしかめ、うつむく。
「なんで、ここに」
「たまたま、通りかかって」
 全くの偶然だった。けれど耳に入った物音を無視できなかったのは、偶然じゃなかったのかもしれない。
「授業は、どうした」
 総士はあさく息をつくまにまに尋ねた。一騎は一瞬呆れて、頭がカッとなるのを感じた。
「どうだっていいだろ、そんなこと!」
「さっき、予鈴が鳴った」
「気にするなよ──立てるか? 保健室に、」
 一騎は総士に肩を貸そうとしたが、総士は腕をつっぱねて、
「止めてくれ」
 とたんに、冷たいものがぐさりと一騎の胸に刺さる。──拒まれた。左眼の傷だ。一騎が、傷をつけたからだ。どうしてか、総士は黙っているけれど、総士と一騎自身だけは知っている。こんな乱暴な人間なんて近づいてほしくないに決まっている。
 もとはといえば、そんな傷さえなければ──左目さえ、見えたら。いいように殴られ、蹴られることもなかったかもしれない。全部、一騎が悪いんだから。黙りこくっていると総士が言った。
「すまない、いいんだ」
「……なにが、いいんだよ」
 問いかえす声がわずかに震えた。
「ヤつ当たりだ。もうすぐ学期が変わって「小学校」も終わりだし、うさばらしには、丁度いい」
「なんだよ、それ」
「春やすみを挟めば、校長の目もとどかないと思ったのだろう」
 一騎は幼馴染の顔を見かえした。総士のはなしは、半分もわからなかった。ただ、その表情だけが目に焼きつく。
 総士は泣いてはいない。そのかわり、怒ってもいなかった。平然と痛みを受けいれているような顔に、なんでだ、という憤りの声が喉まで出かかる。
「生徒のなかには、校長の息子が依怙贔屓を受けているとウワサするヤツらも少なくないんだ」
「ッ……そんなの!」
 けど、と総士は続ける。
「たぶん、もうこんなことにはならない」
「なんでだ?」
「彼らはなにも要求してこなかった。すくなくとも、カツアゲなんかではない」
 わからなかった。総士が、知らない人間みたいだ。白い指が切れた口の端をぬぐい、血に張りついた髪を掻きあげる。
 その顔には、いつか見たひだまりのような明るさは微塵も残っていなかった。それでもどこかに、一騎が好きだったあのぬくもりが無いかと、知らずしらず探している自分に気づく。
「……じゃあ、どうするんだ。このまま黙ってるのか?」
「お前には関係ない。一騎」
「関係ないもんか!」
 突然怒りだした一騎を、総士は驚いたように見かえす。総士を一番はじめに傷つけたのは一騎だ。一騎が傷つけなければ、総士は
「左」
 に臆病になることも、誰かに弱点を見せる必要もなかった。
「必要なら、俺があいつら、蹴散らしてやる」
 一騎はうつむき、拳を握りしめた。
「だって、俺が──」
 お前を傷つけたんだ。ふるえる右手を左手で押さえつけた。一騎は、何もかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
 もしかしたら総士がこんな風になってしまったのも、自分のせいなのではないかと。謝りさえすれば、すべて元どおりになるのではないかと思った。
「でも、ちがう。俺は、お前を」
 洗いざらい話して、そして──。
「一騎」
 総士が一騎の肩を掴んだ。一騎は顔をあげる。縋るように訴えた。
「総士……っ、俺は、」
 伝えたい、と思う。──俺は、お前を傷つけたかったわけじゃない。そう叫びたかったけれど、総士は、首を横に振る。
「今、お前がなにかする必要はない」
 総士の声には有無を言わせない調子だった。
「総士……、」
「一騎。ひとつ、頼みがある」
 一騎は罪を告白できないことに吐き気のようなものすら感じながら、問う。
「……なんだ?」
「僕を、殴ったことにしてくれないか」
 ガツン、と。大きな岩で後頭部を殴られた気分だった。ももちどりの声に混じって本鈴がとおく響く。しずかに話す総士の声がわんわんと鼓膜を圧迫した。
「これ以上、ことが大きくなるのを避けたい」
「……なん、で」
 問う声がふるえた。目の前が真っ赤に染まった気がした。総士の頬にひろがった内出血の色と、唇ににじむ血の色が角膜に広がって世界が赤紫になっていく。一騎がタテに裂いた傷口が開いて、血がしたたって──。
「動機が問題だ。父さんに迷惑を、かけたくない」
 一騎になら、納得のいく動機がつけられるということだろうか。心のどこかが嘲笑した。真壁一騎は暴力に溺れた人間だと、皆が納得し、ウワサする。
「今回のことは僕がお前を怒らせて、全面的に僕に非があるということにする」
 総士は算数の問題でも解くように淀みなく言った。
「お前はただ、なにも悪くない、という顔をしていればいい。できるな?」
 一騎は頭を落として地面に手をついたまま、静かに心臓が脈打つのを聞いていた。土くれが汗で手にへばりつく。
「できるな、一騎」
 うなずくのには、岸壁をよじ登るようなエネルギーが必要だった。それでも、うなずく以外の選択肢がないことを一騎は知っている。こくり、とうなずいたときの総士の声はやさしかった。
「頼む」
 総士は言って、自力で立ちあがるとゆっくりとに踵を返した。一騎は目をつぶった。午後の授業はもう、始まっている。握りしめた拍子にえぐった土が爪の合間に挟まる。
 ──なにを悲しむことがある。
 なにを言われたって、どうってことないじゃないか、と誰かが言う。
 ──そういう人間なんだ、と言われることを、どうして嫌がる?
 ──だってそれは、まぎれもない事実だ。
 グラウンドへ抜ける道には、もはやなんの人影もない。
 ──総士に誤解されることを、どうして悲しいだなんて思うんだ。
 目頭が熱くなってきて、一騎は拳を眉間におし当てた。本当は言いたかった。傷つけたくなどなかったと。
 ──本当はずっと、こんな風に隣にいたかった。
 ──俺はお前を、まもりたかったんだ……総士。