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上善水の如し

 一騎が喫茶「楽園」から直帰したことは知っていた。
 楽園で余った食材等を持ち帰ることはままあったから、今回もご多分に漏れずそうなのだと理解する。しかし風呂敷を解いて姿を現した一升瓶に総士は目を丸くする。
「一騎……それは、何だ?」
「何って、酒だろ?」
 現れた日本酒をまじまじと見つめる総士を横目に、一騎は早々にその他の買い物袋を解き腕を捲り上げる。細いながらも筋張った、しっかりとした男の腕が露わになる。
「そ、そうだったな……」
 どうしたんだ、と可笑しげに総士を一瞥した一騎は総士の了解を待たずに夕飯の支度にとりかかった。
「米、研いどいてくれたか?」
「ああ。あと三十分ほどで炊き上がる筈だ」
 総士が首肯し、一騎がありがとう、と返す。高校に在籍する間の二年間、総士と云う第二の息子のような存在を迎えた真壁家の家事が成り行き上分業になったのは、必然だった。
 高校を卒業した後一人暮らしを始めた総士も最近ではそれなりに包丁を握れるようになってきてはいたが、一騎には差をつけられる一方である。それは一重に、一騎がファフナー搭乗を続ける傍ら楽園の料理人という肩書も捨ててはいなかったためだ。
 一騎は今年で「楽園」での勤続六年目に入る。研究職だって向いてないということはないんじゃないのか、と云う総士の勧めもやんわりと断って、エースパイロットとコックと陶芸家と云う三足の草鞋を起用に履きこなしている。
 ──だって、うまい料理、食わせたいだろ。
 いつだか、一騎がそう言っていたことを総士はスピーカー役の真矢を経由して耳にしていた。対象が誰であるか、と云うことを総士は知らないし、問い質す気も今のところは無い。
 一騎はほれぼれする手際で夕飯のおかずを仕上げていった。並列処理能力でもついているのか? と総士が疑問に思うほどで、以前の印象よりも更に磨きがかかったかもしれない。南蛮漬けの絶妙な香りが漂い、味噌の香りが混じって狭い食卓の上へ所狭しと皿が並び終わるまでは目まぐるしい早さだった。
 それ全てを自分がこなせば三倍はかかっていただろう、と総士は思う。申し訳程度の手伝いを申し出た総士は、ちんまりとした法蓮草の胡麻和えを作るのが精々だった。
 主に空腹を訴えた一騎のペースで、一通りのおかずを揃えると早々に席へ着いた。丸い卓袱台に向かい合わせで腰を下ろす。
 作ることも食べることも苦にしない一騎はいただきますと手を合わせるなり腰を据えて酒と夕餉に取りかかる。その半分程度のペースで白米を口に運びながら、総士は一騎を見遣った。酒を飲んでいるからと云って健康優良児の胃が大人しくなるわけではなく、しっかりと主食を食べつつ酒も口にしている。
 それが正しい酒の嗜み方なのか、酒飲みの理論はよく分からない。
「酒を飲むのなら、米は食べないものなのではないのか」
 疑問に思ったことをそのまま口にすると、一騎はきょとん、とした。
「俺、あんま気にしないんだ」
 そう、大雑把な答えをよこす。
「それにお前が炊いた米、食わないんじゃ勿体ないだろ?」
「それでも、今日中に食べなければということでもないだろう」
 総士は答え、しきりに白米を掻き込む一騎を凝視した。一騎に自炊の飯を食べさせる時は、常にある種の緊張感を伴う。
「……美味いか?」
「お前が炊いたんだから、うまいんだろうさ」
 総士の目は一騎に吸い寄せられる。その顔はどこか得意げである。なんだか力が抜けて、はぁ、と肩を落とした。
「お前は、だんだん司令に似てきたな」
 一騎は見返す。
「え、どこがだよ」
「いつの間に飲むようになったんだ、そんなもの」
 総士は行儀が悪いと自覚しつつ、箸で日本酒の並々と注がれたグラスを指した。
「結構、飲んでるぞ。最近」
 一騎は事も無げに言う。
 確かに、総士は一時記厄介になっていた誼で今でも真壁家に出入りすることが多いものの、毎晩共に過ごしているわけではない。総士の知らない時間一騎が何を飲み食いしているのかは知る由もない。
 総士が怪訝な表情を浮かべていると、一騎が冷奴を頬張りながら説いた。
「溝口さんの店では、嘗めさせてもらってたんだよ。前から」
「そう、なのか」
 知らない情景が一騎の口から告げられる。グラスの中で揺れる水面を見つめている内に、総士自身がぐらぐらと揺れているような錯覚に襲われた。
「嘗めてみるか?」
 一騎が不意に小首を傾げた。ずいと差し出されるグラスを総士はしばし見つめ、手にとる。グラスを握っていた一騎の骨ばった手を気にかけながら、飲みかけのグラスを口元に寄せる。
 鼻面を近づけただけで、強い芳香にくらりと来た。

 * 
 
「……飲めないなら、」
「いや」
 総士の顔色を見て取ったらしい一騎の制止を振り切り総士は口をつける。一念発起し、ぐいと煽った。
 舌に乗った刹那まろやかだった口触りは、喉を滑った辺りからじわりとした熱に変わった。苦みと熱さ。残りの仄かな甘みを感じる余裕は、総士には無かった。
 ぐら、と脳が回転したような感覚に襲われ、次の瞬間には世界に膜がかかったように思考が鈍くなっている。
 硝子を捻ったようなデザインの無骨なグラス。いつの間にか、そんな無骨さも一騎には似合いになっていた。対して、総士の手は北極で砕け散った時からまるで変化を見せていない。一騎が綺麗だとか何とか褒めそやす時には気にもかけなかった無変化が今更胸をざわめかせる。
 酔っているのだ、と自覚してからは石が坂道を転がり落ちるようだった。
「大丈夫か?」
「ああ……」
 乗り出すようにして覗き込んでくる一騎に頷いた。
 認めたくない。認められない、という思いが洪水のように押し寄せてくる。紛れもない焦燥感だった。
「総士、」
「平気だ」
 総士は一騎を睨みつけて二口目を含んだ。度数を思い出して、酒瓶には十六度とあったことを思い出す。水のような舌触りが胃に落ちてかあっと体温を押し上げる。
 平静を装うのは難しいことではない。いつもそうしてきたのだから。
「飲むなら、ちゃんと物も入れた方がいいぞ」
 一騎が言って鯵の南蛮漬けを勧めてくる。
「そう、か」
 総士は二重、三重に見える鯵の身を解すと舌の上に乗せた。ほんのりとした酸味があることは分かったが、美味如何はと言えば分かったものではない。
 ちびちびと飲みながら鯵をつついていると一騎の手がずいと目の前に現れた。ひらひらと左右に揺れる長い指を総士は緩慢な所作で見る。その向こうの一騎の顔はぼやけて靄の中のようだ。
「酔ってるか? 総士、」
「そう見えないか?」
「ああ……いつもと同じに見えるけど」
 総士は内心ほくそ笑んだ。自分では酔っているように思えるけれど、実際は存外強いのではないか、という気になる。上機嫌で残りの分を煽った。
「おい、」
 一騎が嗜めるような声を出すので、総士は鋭い—つもりの—目を向けた。
「お前が僕を嗜められるような立場か?」
「え、いや、」
 戦闘指揮官然とした口調で言えば、一騎はまごつく。物言いたげな間があって総士の幼馴染は席を立った。
「水、取ってくる」
「僕はこれでいい」
 グラスの中のアルコールを指す総士の主張を耳に入れず、一騎は台所へと立つ。話す相手がいなくなると、いよいよ総士の世界は回り始めた。視界だけでなく体全体が縦に回転しているような感覚に呑まれる。
 次いでやってきたのは、吐き気だった。焼けつくような酸の味が喉を迫り上がってくる。
「っ……」
 総士は立ち上がる。座布団を降りた所までは、思ったよりしっかりとした足取りを保つことができた。
「総士?」
 背後から、グラス一杯の水を持って帰ってきた一騎が声を上げる。
「大丈夫か?」
「問題ない」
 総士が言うなり、問題あるだろ、と云う声がかかる。一騎がグラスをおざなりに置いた時、ぷつり、と総士の記憶は途絶えた。ばったりと倒れた衝撃も音も、総士には届かなかった。
 
 * 
 
 目が覚めて一番に知覚したのは、暗闇と、瞼の上に置かれたひんやりとした重み。
 目の上に濡れタオルが載せてあることに気づき総士はそれを退かす。
「起きたか?」
 すぐ傍で声がして、見上げると一騎が覗き込んでいた。
 身を起こそうとすると即座に吐き気が襲ってくる。
「ぅ……」
「まだ気持ち悪いか?」
 相も変わらず総士の世界は回っている。一騎が背に腕を回してくるので余計に居たたまれなくなり、総士はかぶりを振った。
「ゴミ箱もタオルもあるから、ここで吐いちゃってもいいぞ」
 総士は居間に敷かれた布団の枕元、真壁家お決まりの「酔い潰れセット一式」を見た。
 ごく稀に、酔い潰れた真壁史彦が一騎の用意した布団に厄介になっているところを目にしたことがあった。総士も一騎と二人掛かりで介抱したことがある。しかし、よもや自分がその布団の厄介になるとは思ってもみなかった総士である。
 今だ視界は不明瞭だが、意識ははっきりとしている。その証拠に、自己嫌悪が襲ってくるのも早かった。一騎の言動から察するに、つまりそういうことなのだろう。
「……平気だ」
 今すぐにでも外へ走り出たいくらいだが、頭痛と吐き気に負けて総士は布団の上へ沈没した。酔いが醒めてくると次に襲ってくるのは寒気だということもこの経験で初めて学んだことで、甲斐甲斐しく布団をかけてくれる一騎の気遣いに余計に自己嫌悪を煽られる。
 総士は腕で目を覆うしか術が無い。喉に酸味と、焼きつくような感覚を覚えた。
「喉、痛くなるから水はいっぱい飲めよ」
 一騎がそう進めるのはアルコールが水分を奪うことと、胃酸が喉を通ったためだと把握する。
 情けなさにあと一歩で涙が滲むのではと思った。
「今までの人生において一、二を争う不名誉だ、これは」
 声を張る余力もなく力なく呟けば笑い声が鼓膜を叩く。かっとなって怒鳴りたくとも無理な相談だった。
「まあ、酒は吐いて強くなるもんだって言うだろ?」
「誰の受け売りか、聞かなくても分かりそうだな」
「うん」
 溝口さん、と告げられた名前は総士の頭にあったものと同じである。溝口恭介と云う人物は自分とはずっと相容れない思想の持ち主だと思ってきたし、これからもそうである予定だったのだが。
「死にたいと思ったのは、これが人生で二度目だ」
「なんだよ、それ」
 一騎の声が一転、面白くない、と云う風に沈んだ。見上げた一騎の顔は不服気に歪んでいる。体温を吸った濡れタオルを力任せに水に浸し、絞ると総士の額に押し付ける。あと少しで成人を迎える一騎は以前より一層貫録を付けたようで、理論では説明のつかない迫力を帯びているのも父親譲りかもしれない、と総士は思う。
 ぐいぐいと濡れたタオルの上から撫でられて総士の頭を酷い鈍痛が絡め取った。
「お前の酷いとこなんか散々見てるんだぞ。一、二回吐いたところで、今更だろ」
 確かに、幼い頃は一騎のスタミナに体がついて行かずダウンしたことも一度や二度ではなかった。しかし、それとこれとでは根本的な部分で食い違いがあるのではないか。
 何より有体な言いざまが総士に追い打ちをかけた。ノックダウン寸前の意識は深く深く落ち込んでいく。総士は湿ったタオルをぐしゃりと握るように目を覆う。感傷的な考えが浮かぶのは酒のせいだ、と心の片隅の女神に抗弁をする。
「……僕はこの先、酒を飲めるようになることもない」
 十四歳のまま成長を止めた体は、新陳代謝によるどんな変化も齎されることが無い。時間の進行は留まるところを知らず、総士と同級生との溝を深くし続けるだろう。分かり切っていた事実に今更足を引っ張られる。
 女神からの許しも、目の前の幼馴染からの返事もないまま、初夏の生ぬるい空気は静寂に満ちていた。一騎は答えない代わりに、総士の放り出されていた方の手に指を絡めた。一回りほど違う手を持ち上げて、そのまま唇を落とす。
「俺は、何かを残したくて酒を飲んでるわけじゃない。美味い酒とか美味い飯とか、そういうもんだろ?」
 今や喫茶楽園を実質切り盛りしているといっても過言ではない看板シェフは指の一本一本に口づけながら言った。
「俺は、お前と飲めるなら酒じゃなくたっていいんだ。お前とじゃなきゃ、意味がない」
 滑り降りてきた手が髪を梳く。総士は一騎を見上げた。照明の光に目の奥がずきりと痛んだ。
 なら、と言及したかった言葉を先取りするように一騎が言う。
「酒は、口実だよ」
「口実、」
 総士は切れ味のない思考で反芻した。ぐるぐるとまわる世界の中で一騎の声が籠もったように反響する。
 ああ、と笑って呟くなり一騎の身体が覆い被さる。
 軽く身を屈めて口づけを落とした先は左目に走った裂傷の上。唇の感触がやけに生々しく総士の肌に触れた。
 追って触れてきた指は髪を梳き、一騎が体を離した後も頭を撫でる。湿り気を帯びた手が心地よかった。
「明日、飯が食いたい。そう思うのは、今日お前と食った飯が美味かったからだろ」
 ほつれた髪を撫でる手が不甲斐なさを揺り起したが、目を瞑り感覚を委ねるとあたたかな慰撫を素直に甘受することができた。
 ゆったりとした諦念に身を任せる。
「なあ総士、明日も朝飯を食おう、一緒に」
「……ああ」
 総士が頷くと、笑う気配があった。
 何を笑っているのだ。そう声を上げようとして見上げた先の一騎は、思いっきり得意げな顔をしていた。
 嫌な予感がざらりと背を撫でる。
「……何だ」
「お前、忘れてるかもしれないけど」
 とん、と一騎の指先が総士の額を突く。
「もともと俺はお前より年上なんだから、忘れるなよ」
 働きの鈍くなった頭には少々厄介な科白だった。総士は一瞬ぽかん、とし、やがて悟る。
「僅か、三か月の話だろう」
「年上は年上だろ?」
 一騎は子供じみた言い分を放ち、顔を顰めた総士とは裏腹に勝ち誇った笑みを浮かべる。
 おまけに体の上へのしかかられて、総士は文字通り顔面蒼白になった。
 心臓が縮み上がった反動で異様なほど脈が早まる。
「おい、やめろ一騎!」
「吐きそうなら、吐いちゃった方が楽だぞ」
「そういう問題か……!?」
 ぐわんぐわんとした鼓膜で音が渦巻くようだった。
 半ば涙目になっている総士の頬に一騎は口づけを落とす。
 一回り頑強になった印象の大人の骨格に抱きすくめられる。どうしてそんなに嬉しそうなんだ、と零した悪態は浮遊し、同じ胸の中へと滲んで消えていった。