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Becoming You

 子どもの頃の自分に「怖いものはあるか」と尋ねたら、すぐさま「ない」と答えただろうと思う。アスレチックも、雷も、高く聳えるひとり山も、怖いとは思ったことがなかった。大きくて力強いものたちはむしろ興味の対象で、近づいて、よく見てみたいと思ったものだ。
 一騎の無鉄砲に拍車をかけていたのは、かたわらの総士の存在だったのだと思う。総士がそばにいて、できないことなんて何もないかのように思えていた。
「総士、ほら、はやく!」
 一騎は総士の手を引いて、島じゅうを駆けずり回った。3ヶ月ほど生まれの遅い総士の手を。
 その時の一騎にとっては疲れなんて言葉は無縁のもので、そうして走りまわることで総士に無理をさせてしまうなんていうことは、まるで及ばぬ考えだった。
「かずきっ、ちょっと、まって」
 夢中になって走っていると声が聞こえた。振りかえると、総士が片手を膝について肩で息をしていた。
「総士、大丈夫?」
「うんっ……」
 尋ねると、総士は気丈にも笑って頷いた。
「疲れた? ちょっと休もうか?」
 鈴村神社の境内を指して言うと、総士がコクリと頷いた。その日は神社に立ち寄ってからひとり山へと行き、虫取りに興じる予定だった。
 本殿の階段に座ってしばらく休んでも総士は蒼い顔で苦しげに息をつくばかり。これはいけない、と一騎はようやく思い、総士を背中に担ぎあげた。
「かっ、かずきっ!?[#「!?」は縦中横]」
 よいしょ、と背負うと総士は恥ずかしがって、けれど一騎にはそんな総士の声よりも総士の容態のほうが大事だったので、一目散に自分の家へと走った。
 総士の父──つまり、竜宮島代表である皆城公蔵は夜まで帰らないということだったから。
 その後、一騎の家には遠見千鶴がやって来て、総士はすこし熱があると言った。帰ってきた父親に、一騎はお前のせいだと叱られた。一騎が無理をさせたからだと。
 皆城公蔵は夕飯の時間が過ぎるまでやって来られず、一騎はずっと、寝ている総士の顔を眺めていた。父親に叱られるのは腹が立ったけれど、苦しそうな総士の顔を見るとだんだんと、悪かった、という気持ちが湧いてきたものだった。
「総士……」
 ごめんな、と謝ろうとすると、総士がうっすらと目を開けて言った。
「ごめん、一騎」
「えっ」
 謝らなければと思っていた相手に逆に謝られて、一騎は面食らった。
「カブトムシ、取りに行こうって言ってたのに、僕のせいで、行けなくなっちゃった……おこってる?」
 浅い息で総士は言った。一騎はブンブンと首を横に振って「おこってない!」と声を張りあげた。
「カブトムシは、また採りにいこう! こんど、総士が元気になったら!」
「うん。ありがとう……かずきはやさしいね」
 頬に朱を上らせた総士が言って、一騎はそんなことない、と思った。ほんとうは、悪いのは一騎のほうなのに、きちんと謝ることができないでいる自分が、情けなかった。
「ちゃんと元気になって……今度こそ、一騎と一緒に行くから。ね、約束」
「う、うん! 約束だ!」
 総士が小指を差しだして、一騎は慌てて総士の指に自分の小指を絡ませた。
「でもね、かずき、ぼくは……」
 総士の瞼といっしょに絡ませた小指がするりと落ちて、その時総士が言いかけた言葉を、一騎はうまく聞き取ることができなかった。

 * 
 
 重いゼリーの中に沈んでいくような感覚。自分という存在がどろどろに溶けて、やがて拡がり、他の誰かと混じりあって一体になるような。何度も経験してきた。けれど久しぶりの感覚だった。
 総士がそばにいて、できないことなんて何もない。総士がいれば自分は何だってできるし、何にだってなれるように思えた。総士が自分を呼ぶ声はまるでクモの糸──国語の授業で習った覚えがある──のようで、輝くその糸を離しさえしなければ、自分は自分自身でいられるのだという確信があった。
「一騎──マークザイン」
 頭蓋骨のなかに木霊する声。慣れ親しんだ感覚にいつもと違う違和感を感じたのは、総士が一騎の総士ではなくなってしまうような不安のせいだろうか。
「総士」
 その名は絶対不変だった。けれど今から総士は、総士であって総士でなくなる。そのことが、すこしだけ一騎の背筋をうすら寒くさせた。自分が自分でなくなるようなスリルと、少しだけ似た恐怖。
「──マーク、ニヒト」
「行けるか、マークザイン」
 既にジークフリード・システム搭乗者という立場にはないはずなのに、総士は癖が抜けないようすで、指揮官然とした物言いをする。思わず笑いそうになると、察したのか、すぐ傍らで総士が狼狽する気配がした。
「ぱ、パイロットとして搭乗するのは初めてなんだ。仕方ないだろう」
「そうだな。俺もはじめての時は戸惑った」
 今思えば、昨日まで何も知らなかった子どもにいきなりロボットに乗って戦えなんて、メモリージングなんて便利な代物があるとはいえ、随分と無茶な頼まれごとだったと思う。けれど、頼んだのが総士だったから。状況を理解できず、戸惑ったりはしたけれど、選択に迷うことはなかった。
 ファフナーに乗ってくれと総士に頼まれたから、乗った。総士に連れられてマークエルフの所に行ったあの瞬間に、一騎の運命は決まったのだと思う。
「怖いのか? 総士」
「……怖いな、すこし」
 訊くと、総士があっけないほどにさらりと告白するので面食らう。
「お前は怖くないのか、一騎」
 怖い。と口にしてしまえばその感覚が現実になるようで、一騎はそうだともそうではないとも答えることができなかった。総士を傷つけた時、はじめて「怖い」と思った。他の誰でもない、自分自身のことを。
 その恐怖は、今も時折一騎を恐れさせる。けれど誰かを傷つけるような自分自身の暴力性もまた、真壁一騎という人間の一部だと思うのだ。
「総士。俺、あの娘ともう一度話がしたい」
 総士の問いに答える代わりに、一騎は言う。総士は逡巡して、
「新しいコアか」
 と呟いた。戦闘が始まるのは間もなくだ。総士の心中を探る時間も、余裕も今の一騎にはないのは分かっている。けれど「山羊の目」を開ける前に、今一瞬だけ、総士と話がしたかった。もしも、こころに距離があるのなら、総士のこころとの間にある距離をゼロにしたい。
 クロッシング状態にあるために、互いの思考はほぼ、筒抜けの状態だ。こころの声が相手に丸聞こえだなんて、ふつう考えたらぞっとしないが、一騎は存外この感覚が嫌いではない。こと総士とのクロッシングは、いつもなら注視して捕まえねばならない彼の感情や思考が、ちょっとだけ多く読みとれるような気がして、好ましくさえあった。
「あの娘、お前に似てた。昔のお前を思いだしたよ」
 告げると、総士が息を呑んだように感じた。ピンと張りつめていて、今にも切れちまいそうで。総士はすこし押し黙ってから、言った。
「今のコアは、乙姫とは別の人格を持った個体だ……僕の『妹』ではない」
「けど、血が繋がってることには変わりないだろ」
 まだ今はないという新しいコアの名前が知りたかった。これからの島が見たい。それは本心だ。大事なやつのためになら命を使い果たしても構わない、という気もちと同じくらいの。
 こころの中を包み隠さず見せると、総士もまた頷いてくれた気がした。
「帰ってこよう。総士」
「ああ」
 一騎のことばに総士が答えたことで、ふたつの存在がぴたりと重なる。呼吸、脈、体温までもが一体になるような。
「心配するなよ。疲れたら、俺が負ぶって帰ってやるから」
「いっ、いつの話だソレは」
 総士が気恥ずかしげに咳払いをして、あの日々のことを忘れていないのだと分かった。それですこし、安心する。
「緊張、してるか?」
「多少はな。お前こそ、久しぶりの戦闘でなまっているだなんて言うんじゃないぞ」
「それは、やってみないと分からない」
 傍らの総士に──自分自身に笑いかけると、微笑が返ってくる。
「行くぞ」
 そうして一騎は、目を開けた。