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Over The Horizon

クリステン・ライトによる「ホライズンアーク計画」がある者の願いを|余所《よそ》に、またある者の予想とは異なる形で「成功裏」に終わった後、サリアとイフリータの身辺は思ったよりも静かだった。
 というのも、フォーカスジェネレーターの残骸から助け出された後、サリアが安静にしていられるようにとサイレンスが取り計らったおかげだ。
 コンポーネント統括課の統括はもちろん、大半の主任クラスの人員が去った今、ライン生命の混乱は免れない。だが遅からず矢面に立つことになるだろうサリアには「療養のため」という名目で、ほんのすこしの猶予がゆるされている状態だ。
「見ろよサリア、でっけぇ橋だな!」
 その日、トリマウンツを流れる川辺の公園にさしかかった時、サリアを支えながら歩くイフリータが指さしたのはりっぱな橋の姿だった。
 暮れなずむトリマウンツの街並みは、これまでとなにも変わらないかのように穏やかだ。けれど行き交う人々の中では、確実に変化が起きているだろう。
 ペットの爪獣とともに散歩をしている人、ランニングにいそしむ人がふと空を見上げるとき、あの夜のことを思い出さずにいられないはずだ。「星のさや」すなわち阻隔層が破られ、真の天空が姿を垣間見せたあの夜のことを。
 ライン生命が、クルビアが、ひいてはテラが今後どんな歩みを見せるのか、サリアですら完全には予想がつかない。
 あるいはクリステンであれば何かしらの見解があったのかもしれないが、もう尋ねることはできはしない。
「ロングフェローという橋だ。目の前にあるのはチャールズ川という」
「サリア、この辺に詳しいのか?」
「通っていた大学が向こう岸にある。クリステンとよく散歩に訪れた」
「へぇ、サリアが通ってた大学か! すっげぇ頭いいとこだろ?」
 純粋なサリアへの好奇心から、明るく問うてくるイフリータの笑顔に、救われる。サリアは笑い返したものの、イフリータの問いに頷くことはしなかった。
「学力的な意味合いでは、たしかにクルビア一といっても過言ではない。だが、必ずしも『頭がいい』とは言えない者も多かった。ある意味ではイフリータ、お前のほうが賢いくらいだ」
 サリアは嘘を言ったつもりはなかったが、イフリータはむっと頬を膨らませる。
「サリア、いくらオレサマでもそんな子どもじみたオタメゴカシに喜んだりしねーぞ!」
「む、いつからそんな難しいことばを言うようになった?」
「やっぱ子ども扱いしてるじゃねーか!」
 拳を振り上げるイフリータの頭を、笑いながら肩越しにぽんぽんと撫でる。サリアは今まだ松葉杖なしで歩くことができないが、今日はイフリータが肩を貸して杖の代わりを務めている。
 サリアにしては珍しいほどの重傷だった。しかしそれにしても、高度七〇〇〇メートルから落下して命を落とさなかったばかりか、二週間で車椅子が不要になり、外出許可まで出たことは驚愕だ。
 サイレンスの計らいで治療を受け持つことになった医師も「信じられません」と耳にたこができるほど口にしていた。サリアも半分は同感だった。
 残りの半分は、状況証拠から推測して誰かが──おそらくはミュルジスが、崩壊したフォーカスジェネレーターとともに落下した人々の衝撃を和らげてくれたからこそだろう。サリアはまだ面会が叶わないが、ドクターが安否を確認してくれたようだ。
  ──無事でよかった。
 ロドス経由でミュルジスの消息を聞いたときに胸にこみ上げた思いを、サリアは誤魔化さずに受け止めた。つまるところ、ライン生命に関わった「被験者」たちはもちろん、主任や研究者たち自身に対しても、自分がずっと願っていたのはそれでしかない。
「科学の発展」を追求しようとする者からは「あまりに近視眼的だ」と眉を顰められるかもしれない。だがこの願いこそが、サリアの根っこにあり、サリアをサリアたらしめているものでもある。
「サリア。ほんものの空って、きれいだったか?」
 紺色とオレンジが混じりあう空を見上げて、イフリータが不意に尋ねる。サリアは立ち止まり、目を瞑ってしばらく考えてから「ああ」と答える。
 この世で最も間近に星々の真の姿を目にしたひとりであるサリアは、自信をもって言える。たとえ、それにまつわる記憶があまりに痛みを引き起こすとしても。
「そっか。大事な人も、大好きな場所も、もう二度と見られなくてもいいって思えるくらい、きれいだったんだろうな」
 イフリータが呟くように言い、もう一度「ああ」と返すと、今までせき止めていたものを止めるすべがなくなった。
  ──だが私は、守りたかった。
 目を開くといちばん星の輝く空を映す視界がぼやけ、やがて頬を生ぬるいものが伝った。目線を下ろすと、困惑したような、まるで自分の方がひどく傷ついたようなイフリータの表情が目に入る。
「サリア、」
 イフリータに支えられながら、公園の芝生の上に膝をつく。口を覆って懸命に堪えようとするができなかった。
 ややあって、イフリータがサリアの背中をさすりながら、控えめな声で訊く。
「サリア……。泣くのって『弱い』ことか?」
 イフリータはすこしだけ迷いながら、ことばを選びながら続ける。
「サリア、いつか言ってくれただろ。サリアが子どもの時、オレサマくらい強かったらって。はじめは、言われた意味がよく分かんなかった。でも……ロドスで暮らすうちに、分かったんだ。『強さ』って、もしかしたらオレサマが思ってるのだけじゃないのかもって。少なくとも、生まれてから死ぬまでずっと強い人間なんていねぇ。だから代わりばんこで、みんながみんなのこと守るんだ。オレサマが言ってること……間違ってるか?」
「いいや、違わない」
 サリアはやっとのことで、嗚咽の合間に答える。子どもの前で見せるにしては無様この上なかっただろうが、イフリータは笑ったり、失望したようすは見せなかった。むしろ、決然とした声で言う。
「だから、サリアがしんどくて耐えられないときは、オレサマが守ってやる。あのとき『実験室』で、サリアがオレについててくれたみたいに」
 サリアもまた、幼いひたむきさを笑う気はさらさらなかった。
 イフリータはハイドン一号実験室、ライン生命と、数奇な運命に翻弄されながらも、ここまで生き延びた。サリアがはじめて手を取ったときに感じた命としての力強さは、サイレンスの献身により助けられて、まだサリアの腕の中で脈打っている。
 以前にも増して、より強く。
「あぁ……頼んだ」
「うんっ!」
 イフリータが伸べた手をとり、濡れた頬に当てるとあたたかい。そのとき、イフリータが背後の人影に気づいて「あっ」と声を上げた。
「サイレンス!」
 振り返ると、薄闇の迫った通りを照らす街灯の下、コーヒーを二つ手にしたサイレンスが立ち尽くしていた。
 ライン生命入職以来数々の修羅場をくぐり抜け、これから「クルビアの科学界」というさらなる難所に挑もうとしているオリヴィア・サイレンスをもってしても、「サリアの涙」というまぼろしのような事象には|狼狽《うろた》えずにいられなかったようだ。
「あ……えと、サリア……」
「サイレンス、病院の外では離れろなんて言わないだろ? 今はサリアについててやりたいんだよ!」
「え?」
 イフリータが反射的に口にしたことばに、サイレンスはかえって困惑する。だがすぐさま意味を理解して、弱くかぶりを振った。
「もうサリアから離れろなんて言わないよ」
「じゃあ、ほんとうにずっと一緒にいていいんだな!」
「うん」
 サイレンスの答えに、イフリータは満面の笑みになる。サイレンスは歩み寄り、サリアに手を差し伸べた。その手をとって立ち上がるサリアを、イフリータが支える。
「外出許可が出たって聞いて、ようすを見に来ただけ。邪魔するつもりじゃなかったんだ」
「構わない。気にするな」
 サイレンスは初めこそサリアのようすに驚いていたが、イフリータと同じく、じきに受け入れたようだ。もともと心根のやさしい人物だから、他者の「弱さ」に対して非難や当てつけなどしない。
「あなたの──ううん……私のこころの準備ができるまで、ほんとうなら待ちたい。でもこの国の科学界は、きっと待ってくれないはず」
「あぁ。分かっている」
「ホライズンアーク計画」の後、イフリータが入院中のサリアにほぼつきっきりだったのに比べて、サイレンスが顔を見せることはあまりなかった。サリアへの個人的な思いとは無関係に、多忙だったからだ。ロドスに戻ることもなく、トリマウンツに残ったサイレンスは奔走していた。
 サリアも、サイレンスのアイディアについては耳にしていた。「トリマウンツ科学倫理共同宣言」。科学に人の血を通わせるために、サイレンスは大きな一歩を踏み出そうとしている。
 サイレンスは「でも」と肩の力を抜いて、以前の彼女と変わらない微笑を浮かべた。
「今だけ、ちょっとだけここでコーヒーを飲んでいこうか」
「サイレンス、オレサマの分は!?[#「!?」は縦中横]」
 横から催促されたサイレンスは、湯気の立つ紙カップのうち片方をイフリータに差し出す。
「はい。イフリータにはスチームミルクがあるよ」
「えっ!?[#「!?」は縦中横] コーヒーじゃねえのかよ!」
 他愛ないやりとりをしながら、三人で公園のベンチに腰を下ろす。イフリータは不満そうだったが、サイレンスから受け取ったバニラシロップ入りのスチームミルクを飲むと「うまいじゃねえか」とひと口で閉口した。
 サリアもまた、知りつくした味のするコーヒーを口にして息を吐く。すぐ傍らにある、まだ失われていないもののぬくもりに励まされ、夜空を見上げた。
 決して追いつくことのできない速さで彼女が越えていった、かりそめの夜空の星々を。