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レノックスとファウスト

 レノックスは、そのちいさな鍵を握りつぶさんばかりに握りしめていた。まるで、子どもがはじめて手に入れたおもちゃを、誰かに盗られるまいと必死に握りしめるように。今この時ばかりは、手のひらの中の鍵が、命よりも大事なものだ。なにしろ、レノックスの主の生命がかかっているのだから。
 レノックスは疾走する。狭隘(きょうあい)で曲がりくねった古城の城内を。ところどころに設けられた明かり採りの窓からは明るい日差しが差し込むものの、屋内はほの暗い。レノックスは城というものをさして知らなかったけれど、この城はいかにも古びていて、風の噂によると、かの「オズ」という大魔法使いが世界を征服せんとした時に(ねぐら)とし、その後主を失って空になっていたという。
 今は、戦乱の世を制そうとする者たちが一時雨露を凌ぐために逗留していた。レノックスは来たるべき新国王の軍で、人間たちとともに戦い、そしてこの中央の地で新たな世を築いていく。築く──はずだった。魔法使いたちが、何の前触れもなく叛逆の疑いをかけられ、捕らえられるまでは。
 ──なぜ、こんなことに。
 知らせを聞いてから、何度胸中で問うたか知れない。敵勢力の残党狩りに出向いていたレノックスが城に戻った時には、主であるファウストを筆頭に、魔法使いたちは全員投獄されていた。
 ──なにかの間違いに違いない、早晩疑いは晴れるはず。主の顔を再び見ることもじきに叶う……そう抱いていた願いも虚しく、疑いをかけられた魔法使いたちの処刑の知らせが入ったのは、一週間後のことだった。
 軍のなかで、詮議(せんぎ)が行われたという知らせは聞かなかった。だが詮議を経るまでもなく、レノックスにはかの疑いが濡れ衣だと分かった。友であるアレク・グランヴェルのために誰よりも心を砕き、力を尽くしてきたファウストが、反旗を翻すなどあり得ないからだった。
 その日のうちに、レノックスは主人を牢から救けだすことを決めた。少ない手勢でなんとか城のつくりを探り、処刑日の前日までに手はずを整えた。救出の決行は、処刑日当日──今日である。
 回廊から覗く中庭には時折忙しなく衛兵が行き交い、城内はどことなく浮き足立っている。「ようやく大罪人たちを処罰できる」すがすがしさというよりは、誰もがどこか上の空で「みなが正気に戻る前に、済ませてしまおう」というような雰囲気が充満していた。
 狭い廊下をすり抜け、時折出くわす衛兵は声を発さぬ内に昏倒させ、たとえ目を覚ましてもすぐさま大ごとにならぬようにと、猿ぐつわを噛ませて物陰に放る。その間、一度も魔法は使わなかった。頭にたたき込んだ牢までの道順を正確に辿り、そして見つけ出す。
 ひときわ奥まった場所にある牢が、目当ての場所だった。レノックスは音もなく一目散に駆け寄り、中の人物を確かめる。牢の中にはひとり、青年が膝を抱えて蹲っている。
 薄暗い檻の中で、見えづらかったけれど、間違えようがなかった。その姿を見ただけで、万感の思いがこみ上げる。
「──ファウスト様」
 膝をつき、鉄格子ごしに低めた声で呼ぶ。彼ははじめ、なんの反応も見せなかったけれど、重ねて呼ぶと埋めていた顔をそろりと上げた。
 眩しそうにレノックスの方を見て、そして、驚愕に目を見開く。
「……レノックス?」
「はい」
 信じがたいような顔をした彼は、思ったよりも俊敏な仕草で立ちあがると、レノックスの方へと歩み寄った。
 彼が足を踏み出すと、挙動とともに鉄の擦れる音がする。その音で、手足に枷が嵌められているのだと分かった。ファウストは元々、生まれつき恵まれた体躯のレノックスと比べると薄い身体をしていたけれど、目の前に膝をついた彼は、記憶にあるよりもはっきりと痩せて見える。
 レノックスは胸を抉られるような痛みを堪え、やっとのことでことばを紡ぐ。
「……ご無事で、なによりです」
「お前こそ。お前が引き連れていた者たちは、皆無事か?」
「はい。皆、城外に潜んでおります」
「そうか……」
 レノックスの返答を聞いて、ファウストは安堵の表情を浮かべる。いの一番に、自分ではなく部下たちの心配をする主のようすは、捕らわれの身となっても相変わらずだ。幸いなことに──ろくすっぽ抵抗をしなかったゆえだろうが──身体には目立った傷は見当たらない。やつれてはいるが、目も生気を失ってはいなかった。
 レノックスは胸を撫で下ろし、握りしめていた鍵を鍵穴に差す。
「今、鍵を──」
「待て、レノ」
 しかし、レノックスの手を掴んで制止したのは、他でもないファウストだった。レノックスはぎょっとして、主の顔を見かえす。
「……ファウスト様?」
「必要ない」
 そう言ったファウストの声は、至極落ちついていて、冷静だった。捕らわれて、もう間もなく処刑される者の声としては、まったく不似合いなほどに。主の意図が分からず、混乱と動揺に見舞われたのはレノックスのほうだ。
「なぜです?」
「僕は、アレクから逃げることはできないよ」
 ファウストは苦笑して言った。ともに戦場を駆けていた時、彼の幼馴染みや、ほかの兵卒たちがばかをやっているのを見て、呆れたときによく浮かべていた表情と同じ。レノックスがぼう然としていると、ファウストは続ける。
「アレクに忠誠を示す、これが最後の機会なんだ。僕が命をかけて身の潔白を示すことを、あいつは望んでる」
「ですが……。今は逃げて、後からでもアレク様の疑念を晴らすことは、できるのでは」
「一度でも『逃げた』という事実を残すことはできないよ。それにここで僕が逃げれば、僕だけじゃない、この先新しい国に生まれる魔法使いたちまでもが、信用を失うだろう。今僕が臆病風を吹かせて、すぐそこにある理想を掴み損なうわけにはいかない」
 レノックスがファウストのことばを呑みこむのには、すこしだけ時間を要した。
 正直に言えば──命を賭してまで、人間たちからの信用を欲する理由があるだろうか?と思う。レノックスにとって、大事なものはいくつもない。五〇年後、一〇〇年後、この国がどうなっているのかなど想像もつかないし、夢に描くような理想はあまりに遠いところにありすぎて、追い求めようとも思わない。
 けれど、目の前の人物は違うのだ。その聡明な胸の内には、レノックスには想像もつかないような、空に輝く月にも似た崇高さが宿っている。だからレノックスが問いを投げかける時、彼の返事は大抵決まっている。
「お命よりも、信用が大事ですか」
「ああ、大事だ」
 迷いなく、ファウストは答えた。見ると、夜明け前の故郷の空にたなびいていた雲の色と同じ、うつくしい紫色の双眸がレノックスを見かえしていた。
 言いようのない感情が渦巻いて、レノックスは拳を握りしめる。鉄格子ごしに、ファウストの痩せぎすの手のひらがレノックスの震える拳を包んだ。ファウストの手に嵌められた手錠が冷たい音を立てて、反して握りしめられた手のぬくもりが、喉元を熱くする。
「また、生きて会えると信じている。レノックス」
「俺もです……ファウスト様」
 その時レノックスには、そう答えることしかできなかった。
 ファウストは、もしできることなら他の魔法使いたちを逃がすよう望んだけれど、レノックスがファウストの意思を伝えると、皆が彼と運命をともにすることを望んだ。
 その日の昼過ぎ、ファウスト以下、中央の国の建国に尽力した魔法使いたちは、都からほど近い丘の上で処刑された。後の国王であるアレク・グランヴェルが、自らの決定を覆すことはなかった。
 刑に処された魔法使いたちの身体はその後、見せしめのために野ざらしにされていたけれど、頭目とされていたファウストが生き延びて、姿を消したらしいという知らせがあったのは、処刑から三日ほどが経った後のことだった。
 レノックスは慌てて近辺の町や村を探したが、それきりファウストの消息は消えた。霧のように、跡形もなく。はじめこそともにファウストを探していたかつての戦友たちは、数週間、数ヶ月経つ内に別の場所に安寧を求めたり、あるいは精神を病んだりして、徐々にばらばらになり、やがてレノックスはひとりになった。
 それから三〇〇余年、自分でも予想していなかったほど長い間、放浪を続けた。忠誠からなのか、執着からか、あるいは後悔か、懺悔(ざんげ)のつもりなのか──最後には、自分でもよく分からなくなっていた。
 ただ、探すことをやめられなくて、なくしてしまった自分のなかのなにかを追い求めるように、あてどなく歩きつづけた。あの日開けられなかった、牢の鍵を握りしめたまま。