Loading...

ねがいごと

 レノックスがファウストの部屋を訪れたのは、みな夕食を取り終え、各々自室に戻るなり、歓談をするなり自由な時間を過ごす夕べのことだった。
「ファウスト様」
 夕食の席に姿がなく、二日ほど前に見かけたときにあまり顔色がよくなかったのを思い出して、心配になりこうして自室を訪れた。部屋の前に立ってノックをしても、返事はない。もう一度ノックをしてもやはり音沙汰がないが、立ち去ることもできずにしばらく立ち尽くしていると、おそるおそるという風にドアが開いた。
「ファウスト様」
「っ……まだいたのか。なんだ?」
「夕食の席にいらっしゃらなかったので。食べられそうなものをお持ちしました」
 ようすを窺うように顔を出したファウストは、まだレノックスがいると思っていなかったようでぎょっとする。元従者が手にした盆の上の皿を見やると、うんざりした表情を顔に浮かべた。
「……悪いが、要らないよ。そういう気分じゃない」
「昼も出ていらっしゃらなかったと、ネロが言っていました。なにか召し上がりませんと」
「何食か抜いたくらいで死にはしない」
 ファウストが言い、引っ込もうとするのを、レノックスは扉に手をかけて制する。
「そういう問題では。ここ最近顔色もよくないですし、お加減がよくないでしょう」
「なっ……よく見すぎだろう。暇なのか、きみは」
「ファウスト様のためなら、俺はいつでも時間を割きます」
 すこし引いたようすのファウストが扉を閉めようとするが、レノックスの力のほうが勝る。魔力に訴えれば強引に追い払うことも当然不可能ではなかっただろうが、ファウストが折れるほうが早かった。
 しばし押し合いをした後に、ファウストはため息を吐き、力を抜いた。
「あぁ……もう、分かったよ」
 諦めの表情を浮かべるなり、レノックスの手から盆が浮いて、踵を返したファウストを追って宙を漂う。ほっと胸を撫でおろしているレノックスをふと振り返ると、
「きみも付きあうか?」
 とファウストが言った。なにに、とは言われずとも分かる。意外な申し出に、レノックスは驚きを隠せなかった。
「……いいんですか?」
「運ばせてしまった礼に、茶くらい淹れるよ」
「ありがとうございます」
 強引に食事を受け取らせたのはレノックスのほうで、「また出過ぎた真似をしてしまった」と思いこそすれ礼になど及ばなかったが、主の顔を立ててありがたく言うとおりにする。
 部屋の主に続いて足を踏み入れながら、思わず四〇〇年ほど前の光景がレノックスの脳裏を過ぎった。当時のレノックスは名実ともにファウストの従者だったが、なにかするたびファウストは申し訳なさそうな顔を見せ、生真面目に感謝を示していた。レノックスはほかの主がどうなのか知らないが、そうした接しかたはおそらく稀有なことだったのだろう。
 ファウストの自室には何度か足を踏み入れたことがあったけれど、今日もいつもと変わらず、蝋燭の灯だけが照らし出すほの暗い室内の壁には、見る者の内心を映し出すような無数の鏡がかけられている。レノックスはふと、机の上に広げられた一冊のスケッチブックに目を留めた。
「……ルチルの絵本ですか」
 呟くとファウストが「あぁ」と首肯して、レノックスの手元にスケッチブックを浮かせた。代わりに卓上に料理の皿が着地し、戸棚からティーセットが飛び出て皿とともに並ぶ。
「俺が」と反射的に手を出そうとすると、「座っていろ」と命じられてしまう。なのでレノックスはいつの間にか背後に置かれていた丸椅子に、牧羊犬よろしくおとなしく腰を下ろした。
 ファウストがティーポットに茶葉を入れる間に、陶器の水差しの中でひとりでに水がこぽこぽと湧き、湯気を立てはじめる。主の端正な手つきでハーブティが淹れられていくようすをレノックスが見つめていると、問わず語りにファウストが口を開いた。
「朝方部屋を出たら、たまたま、ルチルとミチルが言いあいをしているところに出くわしてな。ルチルが描いてやったこの絵本を、ミチルが気に入らず、口げんかになったらしい。ルチルが怒って絵本を捨てようとしていたから、僕が預かった」
「そうでしたか」
「せっかく描いたものを、かんたんに捨ててしまってはもったいないだろう。後から惜しく思うこともあるかもしれない」
 湧いた湯をティーポットに注ぐと、かぐわしいハーブの香りが部屋に漂う。茶葉を蒸らす間にファウストは腰掛け、料理の皿にかけられていた銀の覆いを取る。まだ湯気の立つ器の中には、卵とみじん切りにしたマカロニ菜、ガロン瓜の酒でやさしい味わいに炊いた米に、薄く削ったエバーチーズがふんわりと散らされている。
「これは……賢者の世界の」
「はい。『よじや』と言うそうです。食欲がなくても召し上がれるかと、ネロが」
「気が利いているな」
 すこしだけ上機嫌になったファウストが、匙を手に取る。少なめのひと匙を口に運ぶと、気に入ったのか手を止めることなく食べるので、レノックスは思わず安堵の笑みを浮かべた。
「ルチルの絵ははじめて見たが、個性があってなかなかいい」
 茶葉が充分に蒸らされた頃、ポットからティーカップへと茶を注ぎながら、おだやかな顔でファウストが言った。出された茶をありがたくもらいながら、レノックスは頷く。
「ルチルの絵は、教えていた学校ではなかなか子どもたちに人気があったんです」
「へぇ。子どもは大人よりもずっと、発想が自由だからな」
 レノックスが手にしたままのスケッチブックには、表紙を開けばひと目でルチルの作だと分かる、そこここで爆発が起こったような色鮮やかな線、かたちが紙いっぱいに踊っている。
 見たところ、ルチルがよく主題にして描いている、魔法使いと人間との共生を描いた絵本のようだった。最後の頁をめくるとそこには、大きく力強い筆致の虹を背にしたふたりの人──ひとりは人間で、もうひとりは魔法使いのようだ──が、手を繋ぎあうようすが描かれている。「人と魔法使いが、仲良くともに生きられる世界」──それが、ルチルが願う世界だった。
 ファウストに淹れてもらった茶を口にすると、過去と現在とが甘美な香りのなかで溶け混じり、かつて見ていた夢の記憶を運んでくる。自分もまた茶を口に運びながら、ファウストが独り言のように呟いた。
「そういった物語を、『絵空事』だと言う者も多いだろうが」
「ルチルは本気です。そのために、絵本を描いて役立てたいと」
「彼の本気を、疑ってはいないよ。いくら実現から遠く、他人から『無理だ』と指さされても、願うことはやめられない。それが切実な願いであるだけな」
 そう言ったファウストの、色眼鏡をかけない|紫水晶《アメジスト》にも似た双眸に、蝋燭の灯がちらちらと映って燃える。
「ファウスト様──」
 レノックスが口を開いたときだ。
 ドン、と爆発音のようなものが聞こえて、ふたりは目を丸くした。