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レノックスとファウストと東

「稽古をつけてほしい」とシノに頼まれたのは、中央の魔法使いと賢者たちが任務で出払ってしまった日の昼下がりのことだった。
 羊たちを中庭で虫干し──羊がみな日向で寝転がっているのを見て、ムルがそう命名したのだ──していると、話しかけられた。
「なぁ、レノックス」
「シノ。なにか用か?」
「稽古をつけてほしい。あんた、昔革命軍の戦士だったんだろ?」
 そう、数百歳歳上の魔法使いに対してもまったく気後れしない、堂々とした態度で言った東の国の森番を、レノックスは手を止めて見上げた。それまで気もちよさげに毛を梳かれていた羊は、心地よい時間を邪魔されたことに気分を害したように、むくりと身体を起こす。
 歳若い魔法使いに稽古をつけるというのは悪い気はしない。最近レノックスもややなまっている自覚があったし、今日の午後は、夕方ルチルに付きあって買い出しに出かける以外用事はなかったはずだ──と、レノックスが考えを巡らせている内に、焦れたシノがことばを重ねた。
「なんだよ、駄目か? 今日は中央のやつらは出払っててカインもいないし、それに……革命戦士ってのはかっこいい。一度手合わせしてみたかった」
 そう言い、シノは勇猛さと少年らしさが同居した笑顔を浮かべた。フィガロは賢者の魔法使いとして召還される以前からシノを知っていたそうだが、レノックスは中央の国に呼ばれてはじめて彼の存在を知った。
 ともに生活をしてみると、シノには噂になるのも頷ける強さと度胸、年相応な面のどれもが備わっていた。レノックスのかつての主であるファウストが、ヒースクリフと並んで目をかけたくなるのも分かる。
「いや、俺でよければ相手になる」
「よかった! 決まりだな」
 レノックスはさっそく、放していた羊たちをちいさくして鞄の中にしまい、中庭の隅に避難させる。羽織っていた上着を脱ぐと、軽く伸びをした。
「あんた、得物は?」
「素手でいい」
 魔道具である大鎌を手にしたシノの問いに答えると、彼は目を丸くした。
「あまり、決まった武器はもたない。なんとなく馴染まなくて」
「そうなのか。じゃあ、俺も素手で……」
「いや、お前は自分の武器を持てばいい。素手でやりあったら、たぶん、俺が勝つ」
 手首を鳴らしながら言うと、シノは不敵に笑った。
「フッ……なるほどな。いいぜ、みてろ」
 ふたりで向き合い、しばしの間沈黙が落ちた。
「どこからでも、来い」
「言われなくても! 《マッツァー・スディーパス》!![#「!!」は縦中横]」
 先に動いたのはシノだった。呪文とともに跳躍し、眩しい陽差しとともに、鎌と一体となって一直線に降ってくる。その姿が、瞬時にぶれて見えた。どころか、数人のシノが、一斉にレノックスめがけて襲いかかってくる。相手に幻覚を見させる魔法だ。
 瞬時に退って|躱《かわ》すが、なおもシノの幻術は消えない。ただの幻であるのならいいが、おそらく攻撃されれば毒や呪いの類いを浴びせられるのだろう。なにしろ、あのファウストが生徒として教えているのだ。ただの子どもだましのような魔力の使い方はさせまい。
 だがまだ、かいくぐり方はいくらでもある。
「《フォーセタオ・メユーヴァ》」
 レノックスは即座に、手のひらのなかに魔道具である鍵を出現させると、呪文を唱える。刹那、中庭一帯に砂塵が巻き上がり、シノとその幻術を襲った。
「──っ、」
 ただの砂だ。当然、相手にダメージを与えるには及ばない。だがほんの一瞬、目を細めたシノの本体を、レノックスは見逃さなかった。身を低めて走り寄る。と同時に鎌を振るわれるが、舞い起こる砂のお陰で、斬撃は正確さに欠ける。
 完全に懐に入ったところで鎌を握った相手の腕をねじり上げ、後ろ手に組み伏せた。
「あッ!?[#「!?」は縦中横]」
 瞬間、シノが現出させていた幻も、レノが巻き起こしていた砂塵も消え去る。しん、と静まりかえった中庭には、二者の乱れた息づかいと、うららかな陽の光だけが残る。
「……俺の勝ちだ」
「──くそっ!![#「!!」は縦中横]」
 相手の身体を離して言うと、シノは座りこんで悔しげに自分の膝を叩いた。すこし拗ねたような顔をして。
「動きは悪くないが、魔法の使い方が甘い。魔法を使うために、魔法を使っている感じがする。もっと相手の出方、次の自分の手を見据えた戦闘の組み立て方をしろ」
「……これじゃあ、完全に先生と生徒だ」
「仕方がない。戦うのが俺の本業だった。それにお前はまだ若い」
 森番だって狩りの技術や護身術は必要だっただろうが、人間相手に領土を奪ったり奪われたりといったレノのかつての生業とはすこし違うだろう。
 落ち込んでいるのかと思ったシノは、けれど切り替えも速かった。
「こうなったら、あんたから盗めるものは全部盗みたい。もうちょっと付きあってくれるか?」
「……分かった。お前の気が済むまで」
 向上心のかたまりのようなシノに釣られて、すっかりとレノックスもやる気になってしまう。
 だが付きあった甲斐があるというのか、シノは、その後続けたたった何回かの手合わせだけで、たしかな進歩をみせた。わざと同じ攻撃を繰り出せば、必ず避ける、対策を仕掛けてくる。洞察力と、学びを即座に次の実践に活かす思考力、身体能力、魔力などは、やはり卓越していると言えた。
 手合わせを終え、木陰で息を整えていると、食堂から水差しごと水を運んできたシノが、杯を手渡しながら隣に腰を下ろした。シノにもらった水を飲み下して、ほっとひと息つく。気づけばレノックスもシノの相手をするのに夢中になってしまい、軽く汗をかいていた。
「レノックスは、昔ファウストに仕えてたのか?」
 そう尋ねられて、「どう答えたものか」と思っているうちに、シノがことばを足す。
「あいつのこと探してたって、ほんとうなのか」
「──誰かに聞いたか?」
「いや、自己紹介のときの話で、なんとなく」
「……そういや、そうだったな」
 一瞬自分以外の誰かから、ファウストの過去が知れわたってしまったのかと思った。だがそうではなかったようだ。
 たしかに「賢者の魔法使い」として召還された直後、レノックスはうっかり皆の前で過去のことを漏らしてしまっていた。レノックスが彼を見間違えようはずがなかったし、ファウスト自身が「人違い」などと言いだすとは思わなかったからだ。三〇〇年以上にわたり探し続けた人に、ようやく会えたというよろこびで、少々舞い上がっていた部分も否めない。
 ただ、今では彼が伏せておきたいと思うことに関して、口を滑らせてはいないはずだ。今のレノックスに、ファウストの意思以上に尊重したいものはない。
「ファウスト様のことを、長い間探していたことはたしかだ。それ以上のことは、言えない」
「ふぅん。ファウストも、いろいろありそうだもんな」
 言って、シノは後ろ手を芝生につくと、中庭から覗く空を見上げた。蒼天の海の中、白い雲が風に乗り、ゆっくりと北へ運ばれていくのが見える。
「俺も、東の魔法使いだ。他人の秘密や背負った過去を詮索したりはしない。けど、守ると誓った相手のそばを離れなきゃいけないっていうのは……どんな気もちなのかと思って」
 シノが言って、レノックスは歳若い魔法使いの横顔を見つめた。シノは、ヒースクリフの実家であるブランシェット家の小間使いだという。ふたりは友人同士のようにも見えるけれど、主従に近い関係でもあるということだ。
 レノックスは、出現させたままだった手のひらの中の鍵に目線を落として、しばし沈思した。ところどころうろ覚えの時期もあるし、正直表現しづらいけれど、シノの真剣なもの言いに、なんとかことばを見つけようとする。
「ファウスト様を探す間は……そうだな。自分はここにいるのに、心臓だけをどこかになくしてしまったような気分だった。自分がなぜ生きているのか、理由を見つけられないまま、ただ起きて、歩いて、飯を食って、寝て……。空虚だったし、つねになにかに追い立てられているような気もした」
「でも、諦めなかったのか?」
「諦めるという発想は……なかったな。フィガロ様とお会いして、ようやく『休む』ことを思いだしたが、探すのをやめるつもりはなかった。今はじめて、気づいたくらいだ。『諦める』という選択肢があったことに」
 ふしぎと口の端に上った笑みで言うと、シノはおもしろがる顔をした。
「あんた、タフだな」
「それだけ、鮮烈だったんだ。あの方にお仕えできた時代が」
「へぇ……」
 レノックスが吐露することばに、シノは羨望の目線を向ける。曇りのないきらきらした双眸に、レノックスなんだかくすぐったいような心地を覚えた。
 レノックスや、たぶんフィガロにとっても、建国時代の記憶には色濃い血の臭いがつきまとう。たくさんの血を流したし、魔法使いたちにとって、その末路は言うまでもない。やさしい気もちだけで語れる話ではなく、そんな風に、憧れにも似たまなざしを向けられるとは思っていなかった。
 だが、これからを生きる若い魔法使いには、できれば過去のことに|囚《とら》われてほしくないとも思う。
「よかったな、また会えて」
「ああ」
 と深く頷いて、レノックスは鍵を手のひらの上から消した。シノはひとつ伸びをすると立ち上がり、文字通り胸を張って言う。
「俺も、もしもヒースのことをどこかで見失ったら、あんたと同じように世界中を探すことにする。あんたも見つけられたんだ、きっと俺も見つけられる」
「その前に、くれぐれも見失わないようにしろ」
「当然だ。おれはシャーウッドいちの森番だぞ」
 レノックスが見上げて言うと、シノはにっと歯を見せて笑った。陽の光がシノの姿を照らして、朝焼けの空を見るような眩しさに、レノックスは思わず目を細めた。