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夢と羊の追復曲

 各国の首脳陣が一堂に会する五カ国和平会議を目前に控えた前夜、想い人との再会を願ったひとりの人形使いと、彼の手により作り出された憐れな人形たちにより巻き起こされた騒動は「賢者の魔法使い」たちの手によってどうにか収束した。
 すっかり変わり果ててしまっていたグランヴェル城が元通りになり、眠らされていた人間たちが目を覚ますなか、魔法使いたちはひっそりと魔法舎に戻り、静けさを取り戻した夜のとばりのなかでつかの間の休息についた。
「レノさん……大丈夫ですか?」
 ノックの音が聞こえて、レノックスの部屋に顔を見せたのはルチルだった。その背後にフィガロの姿も見えて、レノックスは思わず|身体《からだ》を起こそうとする。
「ルチル。フィガロ先生」
「いい、いい。寝ていなさい」
「いえ。それほどの怪我では……」
 重傷のように扱われるのは心外だったが、フィガロに額を突かれて、仕方なく枕の上に頭を戻す。魔法舎に戻った当初、当然のように傷を負った者の介抱に加わろうとしていたレノックスだったけれど、「お前も怪我人だ」と逆にフィガロに手当を施され、不承不承こうして床についている。
「怪我人は怪我人だよ。ただでさえ患者が多いんだ。無理をして俺の手間を増やさないでくれると、助かるね」
「そうですよ、レノさん。ファウストさんを護って満身創痍だったって聞きました」
 ルチルが寝台に腰かけて、心配げな顔を見せる。
「ほんとうに、大した怪我じゃない。すこし疲れているだけだ」
 と、歳の離れた弟のような存在に笑いかけながら、レノックスは不意に、先ほどまでの昂揚が再びぶり返してくるのを感じた。
 たしかに全身に傷は負っていたがどれも深手ではなく、それ以上に「護るべきものを護り通す」という使命感が、ある種の麻薬のように、痛みも疲労も遠くに追いやってくれていたような気がする。
 おかしな言い方だが、四〇〇年間夢見ていた瞬間だった。茨に覆われた城の広間で背中に感じた主君の存在が、レノックスの魂と魔力を赤々と燃やしていた。
「とにかく、明日の昼までは安静にしていること。これは、鎮痛とよく眠れるお薬だ」
「はい、レノさん」
「ありがとう」
 ルチルに背中を支えられて湯で煮出した薬を飲み干し、布団をかけられる。
「またようすを見に来る。時間が経って痛みが増してくるようなら呼んで」
「すみません……」
「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」
 笑みとともにレノックスの部屋を後にするルチルは、この後ミチルの元に向かうのだろうか。ほんとうならずっと弟のそばについていてやりたいだろうが、無用な仕事を増やしてしまった。
 ひとりになった暗がりの中で、レノックスはほっと息を吐く。
 ──だが……みなが無事で、ほんとうによかった。
 ──あの方を、護ることができて。
 緊張感が解けていくとともに、フィガロの薬のせいか眠気が波のように打ちよせてきて、何度目かの満ち潮の後、レノックスの意識はゆっくりと眠りのなかへと落ちていった。
 鈍い痛みとともに目覚めたのは、夢の波間を漂ってしばらくしたときのことだった。
「う……っ」
 脇腹に負った比較的深い傷が疼いて、ちいさく呻く。そのとき呪文を詠唱する声が聞こえて、傷口がやさしい熱と魔力に包まれると、ゆっくりと痛みが引いていった。
「ありがとうございます……フィガロさま」
 てっきりフィガロが戻ってきたのだと思い、そう口にしてから、レノックスは違和感に気づく。魔力の感じがフィガロのものとは異なるような気がして、目を向けた先でぼやけた視界が徐々に焦点を結ぶと、寝台に腰かけたその人がすみれ色の双眸をやわらかに細めた。
 夜の闇の中で、ゆるやかに波打つ|亜麻《あま》色の髪が、彼の端正な輪郭を縁取っている。
「まだ痛むか?」
「ファウスト……さま」
 ファウストは事態が呑み込めずにいるレノックスの額に手を当てて、「熱は出てないな」と安堵を顔に浮かべる。
「その、俺は……大丈夫です。ファウスト様は、どうして」
「僕がきみの介抱をしちゃいけないか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ……来てくださるとは、思わなかったので」
 たとえるなら、羊のお産で生まれたのが双子の子羊だったときのような驚き──とでも言おうか。レノックスは何とか適切なことばを探したけれど、こみ上げる感情を言い表す術はすぐには見つかりそうになかった。
 ファウストはすこし所在なげな雰囲気を漂わせてから、口を開く。帽子もローブもないカソック風の装束一枚の姿で、色眼鏡もかけていない素顔のファウストからは、普段よりも無防備な印象を受ける。
「僕が代わると、フィガロに申し出た。きみは、僕の──……いや、僕を護るために傷を負ったのだから、僕が手当をするのが筋だろう」
「そう、でしたか」
 おそらく、血まみれだった東の生徒たちの治療もしてきた後なのだろう。ファウスト自身も消耗しているだろうに、そんな気負いは必要ないと言うべきだったのだろうが、レノックスは言えなかった。
 四〇〇年ほど前、新しい国家建国のため奔走していた日々のなかで、主君であるファウストを護りとおすことは、レノックスのみならず兵士みなにとって当然の務めだった。すべては「人間と魔法使いが手を取り合える世界」という大いなる夢のためであり、目先の褒美を求めていたわけではなかったけれど、ファウストから治癒の魔法とともにもたらされるいたわりは、兵士たちが殺伐とした戦場を生き抜くためのよすがとなっていた。
 戦場から傷ひとつない身体で帰還したときには誇らしさを感じた一方、負傷したらしたで、ファウストに手づから治療に当たってもらえることもまた密かな栄誉で、その度臣下としての自尊心を満たされたものだ──ファウスト自身は、誰に対しても「これ以上負傷しないでくれ」とぼやくのが口ぐせになっていたが──。
 久しく感じていなかった充足感に今宵だけ甘んじながら、レノックスはファウストを見つめた。
「ありがとう、レノックス」
「はい……ファウスト様」
「安心して、眠るといい」
 ファウストの手のひらがレノックスの両目を覆って、目を瞑ると鼻先をファウストの香りが掠めた後、瞼に柔らかいものが触れた。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
 囁くような呪文が聞こえて、間もなく綿毛に包まれるような心地よい眠りがレノックスの意識を攫っていく。
「メェ……」
「しぃ。おまえたちの主人は眠るところだ」
 眠りに落ちる刹那、笑い含みの声が遠くに聞こえた。ゆりかごに届けられる、あたたかな子守歌のように。
 それ以降、夜の間にレノックスが目覚めるようなことはなかったけれど、代わりに夢を見た。山間の小屋に隠れ住んでいた時の記憶。主君を探す四〇〇年の間に、繰りかえし、繰りかえし目にした夢だった。
 夜が明けた気配を感じて目を開けると、山小屋にはレノックスひとり。長い間使われていなかったようすの小屋は傾きかけ、すきま風がひっきりなしに入ってくる有様で、雨露を凌ぐのがやっとだった。反面人里からは離れていて、隠れ暮らすのには適していた。だからレノックスはファウストを処刑の場から救出した後、そこに匿ったのだ。
 小屋の隅に座りこみ、板壁に背を預けて休息をとっていたレノックスの身体から、薄手の掛け布団がずり落ちる。見回すと、小屋にひとつだけの寝台の上はもぬけの殻だった。焼けただれた皮膚に苛まれて、ひとりでは起きることもままらなかったはずの人が、いない。
 レノックスははっとする。
「ファウスト様……?」
 絶望が、蛇のように首筋を這い上がってくる。嫌な予感がして、焦燥に突き動かされ、小屋を飛び出る。
「ファウスト様──!![#「!!」は縦中横]」
 戸を引き剥がす勢いで外に出たとき、レノックスはとっさに挙動を止めた。そこに、探し人を見つけたからだ。彼は小屋を出たところにしゃがみこんで、野良猫に干し肉の切れ端をやっていた。
「ははっ、ほら、あわてるんじゃない──……レノ?」
 ファウストはレノックスが声もなく立ち尽くしているのに気づくと、ようすがおかしいことを察したようで、きょとんとして立ちあがった。
 彼の身体には火傷の跡もなく、追い詰められた表情もしていない。かつての、清らかで穢れない姿のままだ。
「どうしたんだ? レノ──」
 ファウストが言い終わる前に、レノックスは衝動的に歩み寄ると、彼の身体を抱きしめていた。足元にいた痩せぎすの猫が、「ニャッ!?[#「!?」は縦中横]」と跳び上がって逃げる。
 レノックスの主君はぎょっとしたようすで、けれど突き放すこともなく、レノックスの背に腕を回して抱きしめてくれる。
「──なにかあったのか?」
「あなたが……ひとりで、どこかに行ってしまわれたかと……っ」
「僕は、ここにいるだろう?」
 言い含めるようにファウストは言って、レノックスの背中をゆっくりと撫でる。その感触に慰められるけれど、抱きしめる腕を緩めることができない。
 手を離したが最後、もう二度と掴むことができないような気がして。全身で存在を確かめるのに、震える息を抑える術がない。なかば嗚咽のようになった声を、なんとか絞り出す。
「置いて、行かれたくありません……。もう、二度と」
「レノ、……すまなかったな」
 ファウストがレノックスの腕の中で手を伸ばし、従者の頬に触れる。彼の顔にはすこしの後悔と、悲哀の混じった笑みが浮かんでいた。
「ファウスト、様……」
 うつくしい手に己が手を重ねて、
 ──そんな顔をなさらないでください。
 そう口にしようとしたときだった。レノックスが目を覚ましたのは。