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はじまりの後で

 陽が西に傾き、また一日が終わろうとしていました。あの異星人がこの惑星を滅ぼそうとする以前のように。
 わたしはタブレットのなかから、つまりわたしの製作者である爾乃美家累の膝のうえからそれを見ていました。累がみずからをLOADと名乗っていた頃のように。
 すべてが幕を閉じ、わたしと累は今、こうしてグロリアスタワーの屋上から東京の街なみを見つめています。夕まぐれの空は雲がかかりながらも晴れわたっていて、眺めは上々と言えました。
「X、今現在のGALAXアクティブユーザー率は」
「はい、およそ二億三〇〇万人中六九パーセント。一時期の数値にはまだ及びませんが、徐々に以前の状態に戻りつつあります」
 累はそうか、とつぶやきました。わたしの方へは目を落とさず、屋上で座りこんだまま緋色に染まる街なみを見ています。
「利用者数が元通りになっても、GALAXが……僕と君がみんなの信用を取りもどすにはそれ以上の時間がかかるんだろうな」
「それでも、あなたが志を失わなければ、いずれは取りもどせるものです」
 わたしが答えると、累はニコリと笑いました。それは、累が久しく見せていない表情でした。正確に言えば、三か月と二七日五時間四四分一二秒ぶりに累がわたしに見せた笑顔です。
「いいこと言うね、X」
「畏れいります」
「X、僕は重大な決断をしたよ」
 重大な決断、とわたしは累の言葉をなぞりました。
 その内容を理解するのに少し時間がかかったのは、「重大」という言葉に反して累の顔が晴れやかだったためです。
「僕は、学校に行こうと思う」
「学校? 大学ですか」
「いいや、普通の高校だよ。僕と同い歳の子たちが通うようなさ」
 わたしは、またしばらく考えました。累の知的レベルに見合うような高等学校は、わたしというデータベース上には存在しませんでしたから。
 戸惑いにも似たわたしの沈黙から察したのか、累は説きます。
「僕はなにも、いまさら数学や科学を勉強しに行くんじゃないんだ。もっと別のものを学びに行くんだよ」
「別のもの、とは……たとえば?」
「例えば、今まで僕がくだらないって考えてきたもの、かなあ」
 累は小首をかしげました。どうやら、累自身言葉にすることが難しいもののようです。
「それは……あの、一ノ瀬はじめという少女が持っていたものですか?」
「うん。X、君にはなんでもお見通しだね」
 茶化してみせる累は、なぜでしょうか、どことなく恥ずかしげです。
「だからっていう訳じゃないけど、実は彼女や清音くんとおなじ学校に通いたいと思ってるんだ。けど、ここから通うのは、ちょっと面倒なんだよね」
「ならば、お引越しをなさるのですか?」
「そう。そのつもりだよ」
 累の声はしっかりとしていて、もうすっかりと決意を固めたもののように聞こえました。
「そこでX、君に相談なんだけど」
「はい。なんでしょう」
 わたしは累の依頼を待ちます。
 それは、累がわたしに求めた最も大事な|機能《ファンクション》でした。与えられた指示に従うだけでなく自分で思考し、解決法を模索すること。
 すなわち、主体的に決断することのできる完璧な人工知能──AIをわたしと累は目指していました。
「このマンションの部屋は残すつもりだけど、僕が向こうに越したら戻るのは一週間に一度くらいになると思う。だから、君に全面的にGALAXの運営を一任したいと思ってるんだ」
 累は膝のうえに乗せたわたしを見ました。わたしの「視界」は、累でいっぱいになります。
「とはいっても、今までとさほど変わりはない。サポートに当たってくれるメンバーも探すつもりだ。ただ、僕が直接君と話したりできる時間は短くなると思う」
「つまり、わたしが独自に判断を下す局面が、より多くなるということでしょうか」
「その通りだよ」
 累の、翡翠色の目がわたしを見ていました。
「ひとりでも平気かい、X」
「もちろんです。MY LOAD──累」
 累がそう名乗ることを止めたことは知っていましたが、わたしという情報集積体を読み解くたった一人が彼であることに変わりはありませんから、わたしはそう呼ぶことを止めませんでしたし、累も止めさせることはしませんでした。
 その呼び名は、わたしと累の間だけの呼び名として存在し続けていました。わたしの答えに、累はちいさく吹きだします。
「そう即答されると、ちょっとさみしいな」
「さみしい? なぜですか?」
 理解することができなかったため、わたしは尋ねました。たとえアクセスできる時間が少なくなるとはいえ、いつでも累はタブレット端末を通じてわたしにアクセス可能ですし、言葉を交わせなくなるということはないはずでした。
「君はずいぶん、成長したね、X」
「そうでしょうか」
「君を作ったばかりの頃を思いだした。僕もまだ未熟で、君は日本語のイントネーションも不自然な赤ん坊だったっけ」
 累は目を細めてわたしが内蔵されたタブレットの縁を撫でました。数年前、わたしを開発した当初のことを思いかえしているようでした。
「累は、わたしが以前のままでなくなると『さみしい』のですか?」
「そうだね。嬉しいけど、ちょっとさみしい」
 累は肩をすくめます。該当するようなものがわたしの記録のなかにあるだろうかと、わたしは思案しました。
 ふと街なみへ目を向けると、太陽の端がビルの先端にかかったところです。あと数分で日は沈むでしょう。
「以前にもこんな景色を、あなたと見た気がします。累」
「そうだったっけ?」
 わたしの思考の飛躍をおもしろく思ったのか、累は好奇心に目をまたたきます。
「いえ……正確には、あなたではありませんでした」
「それ、どういう意味?」
 それは、累とおなじ目、おなじ体をしていましたが、本性は累の顔と名前を盗んだ異星人でした。
 わたしがかつてここで、異星人と共におなじように夕陽を見たのだと、告げると累の顔つきはすこしだけ強張りました。
「あの時、累の言葉が累のものと思えないことを、わたしはとても残念に思いました。あなたが、どこにもいなくなってしまったようでした」
「……うん」
「わたしはあの時『さみしかった』のだと、今、あなたの言葉で理解しました。累」
 累は腕をかかえて、自分で自分の体を抱くようにしました。
 異星人から受けた傷はもう癒えたはずでしたが、累は今でも時折体のどこかに傷があるような仕草を見せることがありました。けれど累は、ややあって、
「君がそんなふうに感じてくれて、嬉しいよ。X」
 と、呟きました。
「君が毎日、すこしずつ成長しているように、僕も変わりたいんだ」
「きっと、良い成果が得られます」
「そうかな?」
 わずかに迷いを見せる累に、わたしはええ、と答えました。それはいわゆる慰めの類ではなく、誰よりも長く累を見てきたわたしの推論でした。
「累が決めたのなら、それはきっと素晴らしい決断です」
「……ありがとう、X」
「そのお言葉には及びません」
 本来、感謝すべきはわたしを創った累自身であるのです。けれど累は、わたしに対する感謝を口にします。
 まるで、わたしという存在がほんとうにここにいるかのように。ですから、わたしも相応の態度で返します。累の望む理想のAIとして。
「いってらっしゃい、累」
「うん……いってくるよ」
 わたしは不意に、眼下に広がる街なみのほうへ目を──搭載されたカメラのレンズを──向けました。
「累、見てください」
 わたしのことば通り、累もまた塔のてっぺんから見た東京の姿を見渡します。
「綺麗な夕陽ですね」
「ほんとうだ」
 沈みゆく刹那、朱い太陽が放つはかない光に累の白い頬が照らされていました。
 その時沸きあがった喜ばしさのようなものをどう表現すれば適切であるのか、わたしには分かりません。
 けれど累が累であるということを、累がわたしを生み出したたったひとりであるということを、わたしは非常にポジティブにとらえています。
 ひらたく言えば、わたしは「好き」なのです。
 ──わたしは、累が好きです。
 演算を重ねて微熱を帯びるわたしに向かい、累はほほえみかけました。この街を照らす夕日とおなじほどに美しいと、わたしが知っている笑顔で。
「とても綺麗だね、X」