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聖ファウストの祈り

 |黄昏《たそがれ》の空は紅色に染まり、一面に羊の毛で作ったような薄い雲が点々と浮かんでいた。中央の国は厳しい北の大地や温暖な南の国とは異なり、過度な暑さも寒さもなく、一年を通して過ごしやすい気候が続く。秋には実りの時季を迎え、畑には一面の麦の穂が見られるようになる。
 一見して穏やかで牧歌的な風景のなか、風に煽られて波打つ|黄金《こがね》色の海の上を、不意に不穏な影が過ぎっていく。遠目から見れば鳥と見まごう者たちは、鳥よりもずいぶんと大きく、人の形をしていた。背に翼を生やす代わりに、全員が|箒《ほうき》に跨がっている。世に「魔法使い」と呼ばれる者たちである。
 一〇〇に近い数の魔法使いの集団が麦畑の上を飛行するようすは、ひと言で言えば異様である。帯刀し、あるいは己の得物を携えたうえで、全員が白の装束を纏っていることが、その異様さに拍車をかけていた。畑に出ていた人間の農夫たちは、突如現れた魔法使いたちの集団をあ然と見上げる。ほとんどの者は恐れおののき、ごくまれに好奇心旺盛な子どもが、空飛ぶ集団に目を輝かせて後を追おうとする姿も見えた。
 折しも、「魔法使い」と呼ばれる存在が人間たちの目からは遠い場所にあった時代である。それだけ多くの魔法使いが一時に、軍勢として集結することなどないことだった。ましてやまとめあげた人間など、どこにもいなかったのだ。アレク・グランヴェルをおいて他に。
 人間たちの目には威圧的に映りかねないことも承知で、魔法使いたちは東の空へと急ぐ。沈みいく太陽を背にして。その先頭を飛ぶのは、やはり白い装束に身を包んだひとりの若い魔法使いだ。名を、ファウスト・ラウィーニアという。隣に並んだ従者──レノックスは、主君の方を見て言った。
「ファウスト様。アレク様によいご報告ができそうで、よかったですね」
「ああ。これで、戦局が一気に動くかもしれない」
 レノックスのことばに、ファウストは|微笑《わら》って頷いた。ファウストをはじめとした魔法使いたちに命ぜられたのは、中央の国の西側を治める有力な領主を下し、革命軍の味方に引き入れることだった。アレク率いる軍本体と交戦中の敵勢力の側につかれて、こちらが不利な状況に陥る前に。
 名のある領主だけに多少の血が流れることも噂されたが、ファウストら魔法使いたちは見事説得に成功し、協力の話を取りつけて、本陣へと向かう帰途の最中である。
「今夜は祝宴になりますね。ファウスト様も、踊られますか?」
「は?」
 レノックスが尋ねて、ファウストは目を丸くした。突拍子もない従者の問いに、一瞬反応が遅れる。
「し、知らないよ。今、大事か? そんなこと」
「はい。俺たち兵士にとっては、褒美ですから」
「あんなものが、褒美になるものか……。アレクの歌ならともかく」
「なります。アレク様とファウスト様がお揃いになるのが、いちばんです」
 案外押しの強い従者は、戸惑うファウストに対してなおも言いつのる。慣れないせいで恥ずかしさが先に立ってしまうけれど、そんな風に求められれば、ファウストにとっても悪い気はしなかった。
 生まれ育った土地では、息を潜めるように生きていた。過去、どこかの村で素性がバレて火炙りになった魔女や魔法使いがいたという噂をいくつも耳にしていたから、隠れているのに必死だった。魔法使いを異端として追放するような村の空気が、アレクによって変えられるまでは。
 互いに成長し、彼に手を引かれて村の外に連れ出され、革命軍として功を挙げるうち、今ではどこでだって堂々と外を歩けるようになった。これから魔法使いたちは、もっと、更なる自由を手にしていくだろう。幼い頃、ファウストには夢見ることすらできなかった「自由」を。
「俺は、はやく……アレク様とファウスト様がつくる国が見たいです」
「あぁ……僕もだ」
 隣を飛行するレノックスが零して、ファウストは再び頷く。やがて夕闇の迫った空に自陣の明かりが見えて、魔法使いたちは高度を下げて地上に降り立ち、待ち構えていた仲間たちと再会を果たした。人と魔法使いの別なく、互いの無事をよろこびあう。
 賑やかしい兵士たちの合間を縫うようにファウストが進むと、人並みを掻き分けてひとりの男が現れた。
 彼が現れると、朝でも夜でも、ぱっと周囲が明るくなるように感じるからふしぎだ。そしてその恵まれた容姿は、男女を問わず人の目を引いた。すらりとした体躯に、銀色の星の色に輝く頭髪。抜けるように青い空の色を思わせる双眸は、ファウストだけでなくさまざまな者の心を掴んで止まない。
「アレク。ただいま戻ったよ」
「よく戻った。すごいな、軍艦鳥の知らせで聞いたが、無血開城だって? いったいどんな魔法を使ったんだ?」
 言うなり、革命軍の総大将であるアレクは、面白がるような表情でファウストの身体を上から下まで見分した。
 ファウストが纏っている衣は純白だ。はじめから魔力や武力には頼らないつもりで、一滴でも血を流せばひと目で穢れが分かるよう、部下にも白い衣を身に着けさせた。魔法は極力使わず、行きの道中も徒歩だったから、帰りは急ぎで箒を飛ばす必要があった。
 縁もゆかりもない、それも魔法使いの集団が人間の領主に協力を仰ぐなど、無茶だという声も当然上がった。しかし、人間にも魔法使いにも分け隔てなく接する領主の人となりをあらかじめ調べあげ、彼の信義と誠意に訴えれば説得できない相手ではないと踏んで、ファウストは決行した。
 再三にわたってファウストが単身領主の城に乗り込み、この土地と領民のためにと繰りかえし説くと、粘り勝ちのような格好で、最後には折れてくれた。魔法使いが戦の最中、魔法を使わずに対等に人間と話をし、協力の約定を取りつける。古今東西、そんな事例は見聞きしたことがなかった。けれど、ファウストはやり遂げたのだ。
 それらの地味な積み重ねと功績を、いちいちひけらかすような性分のファウストではなかったけれど。
「魔法は使ってない。……どうも、星の巡りあわせがよかったみたいだ」
「なら、お前は勝利の星の下に生まれたんだな」
 アレクがファウストを見て眩しそうに目を細めた時、周囲のどこかから声が上がった。
「ファウスト様、万歳──!」
「ファウスト様!![#「!!」は縦中横]」
 そこここで起こりはじめた歓喜の声は、徐々に広がって、ファウストを包んでいく。ファウストはぎょっとして、周囲を見回した。
「なっ、……アレク、やめさせてくれ!」
「なにを言う。ほらお前たち、胴上げだ! 敵陣にも届くくらいの声でな!」
「はぁっ!?[#「!?」は縦中横]」
 言うなり、アレクが引き締まった両腕でファウストの身体を抱え上げると、人間と魔法使いたちが周りを取り囲み、ファウストを宙に放った。
 その後、さんざん放り投げられたファウストは、ふらふらになってようやく解放されるかと思いきや、宴の席でも嫌というほど引きずり回されるはめになった。入れ替わり立ち替わりファウストの顔を見たがる者が現れたり、あるいは次の戦で武勲を立てられるよう、幸運のまじないを乞う者が列を成した。
 ファウストができるかぎりひとりひとりと接し、声をかける間に夜は更けていき、やがて宴がお開きになる頃には、すっかりと真夜中に差しかかっていた。